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国債暴落時のハイパーインフレ化

 投稿者:伊賀篤(管理人)メール  投稿日:2013年 3月 2日(土)07時07分38秒
返信・引用 編集済
  (一度投稿したのに、teacupのサーバーメンテナンスで消えてしまったので再投稿です)

国債の市場価格が暴落した時に、もしも日銀が買い支えを実行したら、ハイパーインフレが必然である事を、ゲーム理論の初心者向けの「利得表」によってナッシュ均衡(支配均衡戦略)を表し、それが非協力というゲーム構造に由来して最善の利得を選択し得ないという、ある意味では「囚人のジレンマに類似した状況」が生じる事を示します。

一般的に「囚人のジレンマ」とは、各プレーヤーが相手の行動に関与できない非協力の状況下においては、自分は信頼するという「戦略」を選択した場合において、相手が裏切った場合を想定したら最悪の利得になる事を想定し、それを避ける為と、単独で信頼を続けるインセンティブが無く(より裏切りの方が利得が高く)、相互に裏切りを選択する事が「支配戦略」となってしまい、相互信頼という場合の利得を得られない事を指します。

ここで「類似した状況」というのは、「囚人のジレンマ」という状況が支配戦略になる為には、互いに「協調」を探る余地も無く単独での裏切りの利得が高い事=裏切りのディス・インセンティブが無い事も(恐らく)一つの条件でしょうから、これは正確には「囚人のジレンマ」ではありませんが…
正確には、これは「コーディネーション・ゲーム」と呼ぶそうで、互いに協調する余地が有り、効率的協調=互いに国債を売らない…という戦略を取る均衡と、非効率的協調=互いが国債を売る…という戦略を取る均衡と、その中間に混合戦略が有り得ますが、政府(日銀)は、この均衡のいづれかをプレーヤーが取るのか制御できない為、やはりハイパー・インフレの可能性は残される「失政」と呼べます。
(この内、互いに売らないという均衡は、70%の含み損を金融機関が抱える事になるので、除外できると思いますが)

また「暴落」いう現象で「コーディネーション・ゲーム」になるのは変だという事もありますが、これはこの「利得表」が…

インフレ期待⇒長期金利上昇⇒僅か2%程度のインフレ下でもバブル以来2%以下の利率で発行され続けた国債を大量に持つ金融機関にとって含み損が発生⇒信用不安発生⇒国債暴落⇒デフォルト回避の為に日銀が国債を買支えて市場に大量の通貨供給⇒ハイパーインフレ発生…という【シナリオ】

…を前提としており、つまり国債暴落が起きる事はゲームの【前提】に予めした上で、ハイパー・インフレ化が起きるメカニズムに焦点を当て、ハイパーインフレ化に寄与する大口の国債保有者のみを2人ゲームのプレーヤーとして選んでいるからであり、小口の国債保有者によって(現時点の様に長期金利が0.6%といった過去最低の国債バブル時で含み益が有る内に)先に「売り抜ける」といった、直接にハイパー・インフレ化に寄与はしないながら、暴落の引き金になる行動(つまり単独での「裏切り」の利得が「効率的協調」に勝る利得の場合)を、焦点をハイパー・インフレ化に当てる為にゲームの利得表から除外している為です。
(そこまでを盛り込む為には、自然数=N人のプレーヤーの「一般的ゲーム理論」にまで、ゲームを拡張する必要が有るでしょう…そういうゲームの一般的な表現にも今後は挑戦しますが)

●注1:下記の「利得表」の下の段の方では、プレーヤーを2人に限定してある単純化したモデル化の為に「信頼-裏切り」の組み合わせ時に、片方のプレーヤーが愚直に「信頼」を貫いた場合には日銀による通貨供給が半分になりインフレ率が半分になるという前提で、利得を「×2」倍してありますが、現実には自分が「信頼」を貫く事で利得が倍になるという期待は形成せず(多数のプレーヤーが市場には居る為)、この利得は「×1」に限りなく近づきますので、下側の利得表による「囚人のジレンマ的に類似した状況」は、もっと顕著な利得差となり、現実味を増します。
それに、日本の年間GDPの2倍にも上る、他国に類例を見ない国債発行残高で、国債の暴落が起こり、デフォルト回避の為に日銀が買支えるというパニック心理の状態で、ハイパーインフレ率の期待値が、(僅か)170%であるというのも、非常に控え目な前提です。

●注2:実際に日本のGDPの2倍に上る国債を、全て日銀が一挙に買い取った場合のインフレ率が僅か170%に収まり(下記※2:根拠)、更に単年度で収束するという下記の前提は、極めて【控え目】なものであるにも関わらず、それでも「囚人のジレンマ」が成立するのは下記の「利得表」の通りですが、仮に…その時の経済成長率が数%有ったとしても、下記下段の「利得表」関係(ナッシュ均衡)を変えるものにはなりません。
(理論的には変わる根拠がありませんし、実際に利得の格差は上記の●注1の様に大きくなりますので)

●注3:実際に、国債暴落はデフレ時では無く、当然ですがインフレ時の方が、この事態の発生確率は高まります。(長期金利の上昇で既発国債の保有者には含み損が発生しますから)

※1:根拠(国債暴落時に日銀の買い支えが無い場合、市場売却の場合の損率↓)
http://www.world401.com/saiken/jpn_hatan_kokusai.html
※2:根拠(↓…日本国債の95%は円建てなので対内債務に分類し、破綻発生年の平均インフレ率=単年度を参考)
http://www.world401.com/saiken/default_infre.html
※3:囚人のジレンマ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9A%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%82%B8%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%9E
※4:長期金利の推移(過去10年)…これが既発国債の保障金利とほぼ同義です。これを見れば約定利子が2%を超えていない事が解ります。
(よって満期まで国債を保有していた場合の利得を下記の票では「1.02」としています)
http://www.bb.jbts.co.jp/marketdata/marketdata01.html
※5:下記利得表で、相手に裏切られても信頼を貫いた場合の利得の計算式「=1.02/(1+1.7)*2≒0.76」の説明ですが…「1.02」は満期まで保有していた時の利得、これを「(1+1.7)」で割っているのはインフレ率が170%というのは物価が2.7倍になる事で逆に保有する貨幣価値が2.7で割った値になる事を示し、最後に「*2」をしているのは2人ゲームで国債発行残高の半分近くを一人のプレーヤーが持っている前提から愚直に満期まで2人の内の1人が国債を保有し続ける事でインフレ率が半分になる事を仮定(最後の仮定は実際には「*1」に近くなります)

↓画像をクリックすれば拡大表示します↓
 

FKさんへ

 投稿者:伊賀篤(管理人)メール  投稿日:2011年 7月20日(水)17時47分3秒
返信・引用
  こちらこそ。ありがとうございました。  

伊賀篤さんへ

 投稿者:FK  投稿日:2011年 7月19日(火)15時43分16秒
返信・引用
  今回の貴兄の見解を読む限り、私との対立点は全くありません。全て同意できます。今回はこれで休戦にしたいと思います。ありがとうございました。

http

 

世論調査に出てこない声

 投稿者:伊賀篤(管理人)メール  投稿日:2011年 7月18日(月)07時03分42秒
返信・引用 編集済
  こんにちは。御返事が遅くなってすいませんでした。

> 私はマスコミ論調に大きく左右される世論などは弊害の方が大きいと考えています。またその世論というのは現時点の世論で将来は変化している場合が多いです。

同じ「世論」という言葉でも、少しイメージしているものが、互いに違っているかもしれません。

生活者=庶民は、マスコミの情報より、もっと多くの情報を日常生活の事実(苦労等)などを通じて接しています。

私が地域や職場での対話の中で聞く、そういう生活の中の「溜息」やら「生の声」というのを、私は「世論」という言葉でイメージします。(世論調査での数字などは世論の一側面の切り取りに過ぎないかと…)

そういう…生活者の生の声=世論は、生活という事実に裏打ちされていますので、生活自体が変わらない限りは本質的に変わりませんし、それが本当に政治に反映される事こそを、私は望んでいるのですが…

ですから、私は、世論調査などは参考データにも(殆ど)ならない事も多いかと…
(世論調査結果=世論ではないので、私は一喜一憂はしません)

> 誤った世論誘導したマスコミ各社には少しは責任を取らせたらいいと思っています。彼らは常に言いっぱなしで何一つ責任は取りません。

これは、同意ですが、いずれ歴史が審判を下すでしょう。

(事実、新聞の発効部数は減り続け、TVも有料チャンネルが増えています。いずれ消費者である庶民がマスコミを選ぶ時代が来るのでは?)
 

世論

 投稿者:FK  投稿日:2011年 7月16日(土)04時35分18秒
返信・引用
  1.2.3の1)については全く異論はありません。全て納得できます。

ただ、3の2)については少し違和感があります。私は世論通りの政治がベストとは思っていません。世論というのはマスコミ操作で(ある程度)可能と思っています。特に頻繁に行っている世論調査などは対象となる項目や質問内容によって簡単に操作できると思っています。私はマスコミ論調に大きく左右される世論などは弊害の方が大きいと考えています。またその世論というのは現時点の世論で将来は変化している場合が多いです。誤った世論誘導したマスコミ各社には少しは責任を取らせたらいいと思っています。彼らは常に言いっぱなしで何一つ責任は取りません。

http

 

国民の理性を信じる事

 投稿者:伊賀篤(管理人)メール  投稿日:2011年 7月15日(金)06時09分45秒
返信・引用 編集済
  こんばんは。前回の「轍を踏まえて」…議論の種類を、『客観的な唯一の答え』を論争で明かにする事ではなく、主観によって異なる『様々な答え』を交換する「対話」にしたいと思います。

1.まず私の…

> 庶民の持つ『直観力』というか『洞察力』には(私は)敬意を持つことが多い。例え偏向したマスコミであろうと、そこに含まれる客観的な事実の断片を拾い『本質』を見極めていく。

…という発言は、実は自分のコンプレックスの裏返しでもあるのですが(私は身近な人間関係の本質でさえ『理屈』で理解しなければ対応できないという障害を持ってます)、客観的問題としては、「個人」が時に間違いを犯さない事が否定できないのと同じ様に、集団としての「庶民」にも彼らの限界に由来する間違いやら愚かさという鎖から、未だ完全に自由とは言えないという事実の中の【本質】は、貴兄が…

> 私の紹介したケースは当時の世論も同じ傾向であったと思っています。しかし今振返ると、私の直観は間違っていたと反省しています。

…という様な【現象形態】として、私自身の身近な問題にも現れていますので、共感も出来ます。

例えば、私は若い頃には、日本共産党の括弧突き『科学的』社会主義の説明を鵜呑みにしていました…(恥)

この場合の「理由」としては、貴兄が言う…
> 自分の関心の無い事柄、またこれまでの印象で嫌いな政党、嫌いな政治家にいついてはマスコミ論調に迎合していたからだと思っています
…とは正反対(比較的に「好きな」存在に対する盲目)ですけどね…

余談ですが、嫌いなものといえば、例えば私は「小沢氏」が嫌いですが、微罪でスキャンダラス的に陥れられた事については、それが果たして公正な事かと問われれば、一般的に汚い事がまかり通る政界ではよくある事とは云え、どうも誉められた事では無いという【程度】の批判的認識は一応は有ります。
(貴兄にすれば不充分な認識かもしれませんが)
(私が嫌いな)前原氏が、永住権のある在日外国人から献金を貰っていた事で、辞任した時には、法がどうあれ、その程度で辞任する必要(必然)は全く無いと、腹を立てたものでした。
(その時の日本共産党の党略的な態度にも)
菅直人・総理大臣も、今(の情勢で)は嫌いなものに「鼻をつまんでも」擁護するするしか無いという政治的な判断をしています。
マスコミの彼に対する論評には妥当な点もあれば、不当な点も多いという認識です…特に今回の「脱原発」の公言に対する報道には、自民党や経団連などによる「批判」ばかり報道しているという事には、(菅総理個人に対する不満を置いておいても)腹を立てています。

しかし「国民の理性」を如何に見るかと言う本題に戻りますと、歴史という物を、数年ではなく数百年単位で見れば、これまでも人類は失敗を繰り返しながらも「桎梏(しっこく=枷・限界)」を乗越えてきたのも、また別の側面の事実でしょう。
(身分制度を乗越え、偏見を批判し、福祉・人権意識を発展させてきた等々…)

私は今回は(…苦笑)、どちらが人間の本当の【本質】なのかを判定する議論は、(この場合には)無意味だと思うのでしませんが、私としては(『主観』として)、後者(長期的な賢明さ)の認識に立ちます。
そして、その事は、個人という短期的なレベルで評価すべき【自省的】な問題で、常に自分の認識を疑う事とは、矛盾しないと思っています。

2.次に貴兄の…

> また、私は政治家もマスコミ批判をどんどん行なっていいと思っています。一方的な論調が多すぎると感じています。

どうも私の前回の「要約」が不正確に伝わったみたいですが(誤解?)、私は政治家によるマスコミ「批判」自体を封じるべきと主張している訳ではありません。
そもそも論で言えば、言論の自由に属する「批判」自体は、どんな立場の誰が、どんな立場の誰に対してであれ、それは自由です。

それを前提に田原総一郎氏への評価(私の主観)については、以前にも私も書きましたが、ほぼ同意です。

ただ一方の田中真紀子氏への評価(私の主観)についても、以前にも私も書きましたが、場合によっては日本共産党によるマスコミ批判にすら劣るという考えです。
(客観的な公平な「批判」ではなく、政治家としての立場を忘れた主観的「願望」と受け取られても仕方が無い場面も有るという事です)

3.最後に貴兄の…

> 私は『国民の直観=マスコミ論調=世論政治』がこれまでの政治の失政にあると思っています。

私は、そんなには単純な等式(=)が成立しているとは思っていません。私自身にも情報リテラシーが充分に有るなどと傲慢になっているわけではありませんが…

1番目の等式(=)は、時には反する事もありますし(無茶な世論誘導を意図的にマスコミが行おうとしている時など)、ぜいぜい近似(≒)ぐらいのものでしょう。(必ずしもマスコミの思い通りとはいきません)

2番目の等式(=)に到っては、もしも世論通りの政治が行われているならば、今ごろは日本は【天国】になっているだろうとすら思う私にとっては、疑問を提示せざるを得ません。そりゃ私の把握する世論が一部のものに過ぎない「可能性」はありますが、ことごとく生活者=庶民の生の声に反する事ばかりを進めているのが、今の政治だと思っています。(つまり全く等しくないと思っている)

だからこそ政治運動に私は加わっているのです。そして末端とは云え政治に参加する者である限りは、立場として「国民の理性」を信じぬく決意であり、愚民思想とは政治に携る者にとっては(私の主観では)唯一絶対と言って良い程の「タブー」だと思っているという事です。
(それは社会に働きかけとうと思う者にとって、立場に『規定』された信念です)
 

国民の直観

 投稿者:FK  投稿日:2011年 7月14日(木)20時19分1秒
返信・引用
  前回の議論については了解しました。次のテーマで議論したいと思います。よろしくお願いします。

以前、貴兄は日記の中で次のように述べています。

1.>・・・庶民の持つ『直観力』というか『洞察力』には(私は)敬意を持つことが多い。例え偏向したマスコミであろうと、そこに含まれる客観的な事実の断片を拾い『本質』を見極めていく。・・・

貴兄の本当の真意はこれだけでは分かりませんが、私の立場と違います。私は殆ど評価していません。私自身の経験で言うと、2000年小泉政権誕生時は熱烈に彼を支持していました。少し後で鈴木宗男氏が疑惑の総合商社などと糾弾された時は同じように批判的な目で彼を見ていました。2004年の年金未納問題で菅氏が代表を降りても、マスコミ報道が事実と思っていました。2005年の郵政選挙では直前まで賛成でした。(国の原発政策に異を唱えていた)佐藤栄佐久知事が贈収賄容疑で逮捕された時も、彼の原発政策は当時は全く知りませんでしたし、知事を4期も務めているから業者(水谷建設)との癒着も当然と考えていました。私の紹介したケースは当時の世論も同じ傾向であったと思っています。しかし今振返ると、私の直観は間違っていたと反省しています。

なぜそうなったのか?を考えると、私自身で言えば物事の判断において、自分の関心の無い事柄、またこれまでの印象で嫌いな政党、嫌いな政治家にいついてはマスコミ論調に迎合していたからだと思っています。私自身もそうですが、国民の多くもメディアリテラシーがついているとは思えません。個人的には『原発問題』がそうであったからとしても、他の問題でも国民の直観を素直に信用する気にはなれません。

2.また、私は政治家もマスコミ批判をどんどん行なっていいと思っています。一方的な論調が多すぎると感じています。また視聴率重視の余り感情的な訴えが多いと感じています。ニュース性を追及する余り些細な発言やちょっとした金銭問題やスキャンダルでの追及も多いと感じています。なんか『マスコミ論調』(世論調査)が『国民の声』であり、それに逆らう政治家は直ぐに既得権益者とか、抵抗勢力、古いタイプの政治家という『レッテル貼り』が行なわれているように感じます。恐れずにマスコミ批判を行う事が出来る政治家を私は支持したいです。(他の政党にも言えることですが)共産党のマスコミ批判が支持されないのは『自分たちの事だけ』考えていると映っているからです。

3.私は田原総一郎氏の「国民はマスコミ報道を信用するほどバカなのか?」という見解は、非常にずるく卑怯な反論だと思っています。普通の国民は自分の事で精一杯です。時間的余裕もなく、自分の関心の無い事柄はいちいちマスコミ論調のチェックはしません。関心のない事柄については、多くの国民は空気に流される場合が多いと感じています。その責任があるからこそ客観的で冷静な判断が下されるような姿勢が求められるのですが、それを放棄した発言になっています。私は『国民の直観=マスコミ論調=世論政治』がこれまでの政治の失政にあると思っています。

http

 

FKさんへ

 投稿者:伊賀篤(管理人)メール  投稿日:2011年 7月14日(木)02時46分5秒
返信・引用 編集済
  こんばんは。(常より早い時間=8時頃に就寝したので、こんな時間=夜中の2時に目が覚めてしまいました)

> 論理学の基礎が分かっていない私ですから、もしかすると頓珍漢な答えになっているかもしれませんが

私の言った「論理学の基礎が分かっていない」という言葉は、自分で言っておいて何ですが、あまり気にしないで下さい…

科学的分野で使う(形式)論理学や、カント・ヘーゲル流の論理学というのは、もし知っていれば【裁判】の様な【論戦】では役に立ちますが、日常生活での「対話」では、知らなければ知らないで、何の支障も無い(事が殆ど)です。

> 仮に今回の議論で「大臣と知事とでは大臣が上」だから「大臣を擁護する」という私の発言でもあれば、貴兄の主張は納得しますよ。しかし私が大臣を擁護したのは、発言部分はマスコミが騒いでいるほど暴言とは感じなかったからですよ。

> 貴兄が勝手に私の心理を規定した事が要因と考えています。


事実として、貴兄が大臣をメインバンクの頭取の様なものと言う「喩え」をしたので、その「喩え」は『主観的印象』であって、厳密な『客観的事実』とは違うという、大人気無い…突っ込みを(私が)入れただけです。

実際に私の経験的事実として、例え企業の「倒産」という事態がメインバンクにとっても一蓮托生の場合でも、メインバンクというのは『金の貸し手』という立場ですから、私の勤める実際の会社の経理の人などに苦労を聞いても解りますが、現場での【客観的な立場】としては「対等平等」とは程遠いものです…(苦笑)

これは…貴兄には、あまりに【形式的】に過ぎる論理に思えるかもしれませんが、例えば裁判などでは【言葉】とは『主観的』な意図やら解釈では無く、その言葉自身が持つ『客観的=形式的』な意味だけが問題になります。

名誉毀損罪などが問題になる場合などが良い例です。

弁護側が『主観的情状酌量』を訴えるのは『客観的事実』では争えない場合に限ります。

だから『形式的』に(過ぎる?)単純な論理を用いて…

> 「国を代表する担当大臣」と「被災県の県知事」という上下関係が法的に規定されていない『事実』と、互いに立場は違っても【被災者】を「助ける」という事を第一義にせねばならないという『事実』を置いて、松本龍元大臣がその『事実』に反する言葉を(それが彼の『主観』の中では如何なる意味であれ他者に如何に解釈され得るものであれ)、実際に使ってしまったという別の『事実』が加われば、1+1が2になるのと同じく、それが②の『客観的』に彼の発言の【本質】とされてしまう

…という様な【論理】だけが、科学的な(…と言って悪ければ【唯物論】的な)方法論を自覚的には目指さねばならない、政治学やら法学の世界では、唯一の『客観的』な解釈とされてしまうというだけの事で、別に…多様な『主観』やら印象やらを根拠に為される一般的な【評論】や【日常会話】の世界では、それは決して『唯一の答え』では有りません。

これは貴兄が求めている「対話」の種類を、私が取り違えていただけの事でしょう。

(言い訳になりますが、本掲示板では、過去の書き込みを見ても解る様に、学者さん達と、科学について、数式やグラフなども使って議論して来たりしていたという、過去の経緯もあって…)

> 次のテーマに移りますか?このテーマで議論を続行しますか?一度休戦にしますか?貴兄の判断に従います

少なくとも、このテーマは、貴兄が求める「対話」の種類が、私が勝手に考えていた(あまりに)形式的であれ『唯一の答え』を出さねばならないという裁判における【論争】の類とは違っていたので、これ以上は続けても意味は無いでしょう。
(日常会話や評論の様に、別に唯一の答えを求めるので無いならば『唯物論』的な方法論は無用ですし)

また、次のテーマ(マスコミ論と愚民思想)についても、予め(既に)何回か前のレスで私の考えは述べてますから…それを私の『主観』として受けとって下さるか?、まだ基礎となる『客観』において事実誤認があるとして反論(主張)したい事が貴兄にあるなら、それは自由にどうぞ。
(こちらから提案したテーマでは無いので)

簡単に繰り返しますと、日本のマスコミに問題が有るのは(貴兄だけでなく)多くの人も指摘している事実で、それはそれで問題です。(それはマスコミ側としての「社会的責任」の問題)
例えば、原発の安全神話を垂れ流してきた事とか、『客観的事実』の報道より『主観的扇動』が目的じゃないかとまで疑われる個別の案件での報道姿勢とか…

しかし、逆に(報道の自主性の尊重をせねばならない立場の)政治家が、それ(=マスコミの現状)を理由にして、自己の主張や立場が大衆に受け入れられないと【嘆く】のも、常に大衆の「理性の発揮」を信じていかねばならない政治家自身の立場とも、あまり相性がよろしくは無いというか、場合によっては本末転倒という場合が多いという事です。
(日本共産党が、例えば選挙敗北をマスコミのせいに責任転嫁しているのは、見苦しいという事です…苦笑)

ここまでは一般論なので、あまり議論にはならないでしょうが…
 

伊賀篤さんへ

 投稿者:FK  投稿日:2011年 7月13日(水)08時37分3秒
返信・引用
  >・・・常に『唯物論』を意識して、客観的な存在のなかの【本質】を認識に反映しているか否か?で優劣を競う事がありますので、それはご了承下さい。

論理学の基礎が分かっていない私ですから、もしかすると頓珍漢な答えになっているかもしれませんが、仮に今回の議論で「大臣と知事とでは大臣が上」だから「大臣を擁護する」という私の発言でもあれば、貴兄の主張は納得しますよ。しかし私が大臣を擁護したのは、発言部分はマスコミが騒いでいるほど暴言とは感じなかったからですよ。

(また議論になっては面倒ですが)私からすると、今回の議論が噛み合わなかったのは、私が大臣を擁護した事によって、「大臣と知事では大臣が上と思っている」と、貴兄が勝手に私の心理を規定した事が要因と考えています。

ps)次のテーマに移りますか?このテーマで議論を続行しますか?一度休戦にしますか?貴兄の判断に従います。

http

 

補足:唯物論の使い道(FKさんへ)

 投稿者:伊賀篤(管理人)メール  投稿日:2011年 7月13日(水)07時04分53秒
返信・引用 編集済
  私はクリスチャンですから、哲学的に言えば『客観的・観念論者』という『観念論』の一種を持っています。ですから『観念論』という言葉を侮蔑的に使う事はありません。

①:ただ、自然科学・工学・政治学・法学・経済学などは、方法論的に『唯物論』を用いるのが適切でしょう。
自然科学は無論ですが、社会科学での『理由』としては、歴史的に形成されてきた『客観的な事実』が『主観』よりも先行する基本的な存在と前提する『唯物論』でなければ、単なる『主観』によって異なるという『観念論』による「正解は無し」になってしまい、人命や人権という基本的な存在が脅かされるからです。
(宗教戦争など最たる例でしょう)

②:ただ、文学・美学・そして【評論】などの分野で『唯物論』を機械的に使う人間が居たら、私も馬鹿じゃないか?と思います。『主観』と『解釈』こそが基本だからです。(文学史や美術史ならば研究対象が客観的存在になりますが)

③:あと、中間的なのが、文化人類学やら地理学やら心理学やらですが、これらの学問では人間の『主観』そのものを研究の対象とする『客観的な存在』として扱います。ですから、だた無闇に機械的に『唯物論』だけを押していればそれで良いとは行かないでしょう。

【仮に】貴兄が『観念論』を世界観にしていて、「正解は無し」という世界に生きていても、決して侮蔑の対象にはなりません。ただ往々にして「正解」を出さねばならない…①の問題について議論したいのであれば、常に『唯物論』を意識して、客観的な存在そのものの中に有る【本質】を、互いの何れが認識に正確に反映しているか否か?で、優劣を競う事がありますので、それは御了承下さい。

その場合は「方法論」として、単なる「評論」の場合とは異なり、前回の「哲学の根本問題」という私のレスの様な「議論形態」となるでしょう。

(ところで前回の、私のレスである「哲学の根本問題」の内容は、理解できましたか?)
 

伊賀篤さんへ

 投稿者:FK  投稿日:2011年 7月12日(火)13時20分59秒
返信・引用 編集済
  1.>私は何も貴兄を「侮蔑」などしてませんよ?・・・

そうだったのですか。それでは表現にもう少し気を付けて下さいね。貴兄の真意がそうであっても相手がそう感じる事はありますよ。

2.>最初から優劣なんか付けてませんよ。

そうだったのですか。確認ですが貴兄の主張と私の主張は(主観・客観の優劣は無く)方向性が違うだけであったという事ですか?そうであるならば今後とも貴兄と議論はできると考えますが、そうでなければ貴兄と議論する気になれません。

3.>・・・貴兄こそ真面目に考えて下さい。

申し訳ありませんでした。私としては貴兄が「社会的な文脈」を出した頃から正直、理解不能になっています。それで議論がかみ合わないのだと考えています。私も今後はできるだけ努力しますが、できうれば貴兄も相手に伝わりやすい表現をお願いしたいです。また最初から「論理学の基礎が分かっていない」などという表現は貴兄の真意は別として、真面目に考える気は起こさせませんよ。

http

 

哲学の根本問題

 投稿者:伊賀篤(管理人)メール  投稿日:2011年 7月12日(火)07時43分49秒
返信・引用 編集済
  こんにちは。

私は、何も貴兄を「侮蔑」などしてませんよ?ただ単に…

> 「国を代表する担当大臣」と「被災県の県知事」という上下関係が法的に規定されていない『事実』であり、互いに立場は違っても【被災者】を「助ける」という事を第一義にせねばならないという『事実』です。

…という簡明な『客観的な事実』は相容れない…

> 例えるなら、知事は思わぬ自然災害で工場の大部分を破壊され資金繰りが悪化している大企業の社長であり、大臣は体力的に弱いがその企業と一心同体のメインバンクの頭取のような関係であると考えています。これは私の主観です

…という『主観的な観念』を、主張の【基礎=出発点】にしているから、字義通りに、全てを『客観的事実』を基礎=出発点とする【唯物論】とは異なり、全てを『観念』を基礎=出発点とする【観念論】だと、判断しただけで、そういう哲学的な立場だって有るという事を紹介しただけです。
(ちなみに、有名なカント等も、貴兄と同じ【不可知論=主観的観念論】の哲学者ですよ…観念論か唯物論かは哲学の根本問題です)

しかし、貴兄が今回…

> 大臣と知事が法律で上下関係の規定がない事くらいは分かっていましたよ。また両者とも被災対住民のためにお互い協力しなければならない事も分かっています。

…と述べた事は、つまり従来の「観念論」の立場を捨てて…

> 「国を代表する担当大臣」と「被災県の県知事」という上下関係が法的に規定されていない『事実』であり、互いに立場は違っても【被災者】を「助ける」という事を第一義にせねばならないという『事実』です。

…を、主張の【基礎=出発点】とする「唯物論」の立場を採るという事と理解して宜しいのでしょうか?

ならば…

> あくまで何が【本質】であるか?(異なる主張の何れかが妥当であるか?)の【答え】は、元になる『客観的な事実』そのものの中にあり、相対的に過ぎない『主観的』な『解釈』の中に有るのではありません。

…という事も理解して、整理すると…

①客観的事実が全ての基本(主観や解釈以前の事実を出発点にする)
②客観的事実そのものの中に物事の【本質】は存在する。
(=客観的事実に基づかない観念の中からは【本質】は現れない)

…という認識論にも同意を得られたと考えても宜しいのですか?
もし同意が得られているとすると…(前回も述べた)

①の前提として、「国を代表する担当大臣」と「被災県の県知事」という上下関係が法的に規定されていない『事実』と、互いに立場は違っても【被災者】を「助ける」という事を第一義にせねばならないという『事実』を置いて、松本龍元大臣がその『事実』に反する言葉を(それが彼の『主観』の中では如何なる意味であれ他者に如何に解釈され得るものであれ)、実際に使ってしまったという別の『事実』が加われば、1+1が2になるのと同じく、それが②の『客観的』に彼の発言の【本質】とされてしまうのは、理の当然の事でしょう。
(つまり『主観』では無く『客観』が【本質】を決めるのです)

…という事にも異論は無い筈です。つまり、この時点で、結論は出ています。
であれば、発言の後に続いて現れた各事実に基づく下記の「証明」…

> 言葉が使われた状況という『事実』と、(彼の主観的意図や他者の解釈以前に)使った言葉の『事実』から得られた、私の言う彼の言葉の【本質】が的外れではなかった事は、直後に彼自身が行った頓珍漢な弁明では逃げられないと悟った後に、辞任という形で彼自身も受け入れざるを得ないものでしたし(居座れない程に【本質的】だったという事でしたし)、被災地の住人を先頭として世論の多くにも辞任は当然として受け入れられた事で、結果的に私の指摘が【本質】を突いたものである事は、間接的に「証明」されたとも言えましょう。

…という事にも、もちろん同意されるでしょう?
(これ以上の議論も必要無い筈です)

私は、私と貴兄の違いの決定的な問題は、単なる『主観』による「解釈」ではなく、【解釈以前】の、『客観的な事実』を根本原理とするのか?、(私から見れば)2次的に過ぎない『主観による解釈』を根本原理とするのか?…という【世界観】の問題だと考えていました。

繰り返しますが…『客観的』な『事実』ではなく、単なる相互に異なる『主観』を【出発点】とする限り、御互いは何時までたっても【本質】には到達できません。(妥当なのはどちらか?の結論は出ません)

しかし…

> 私の主張も貴兄と同様に客観を媒体にしている主張と認めて下さい

…という表現では、貴兄によれば客観は単なる「媒体」だそうですから、主観こそが単なる「媒体」だと思っている(根本的存在は客観だという)私の意見の核心が、貴兄には未だに理解されていない様です。(苦笑)

貴兄の『主観』にも間違い無く何らかの『客観』が反映されているのは確かですが、ただそれが『客観』の中に有る【本質】を反映していない歪んだ反映だというだけです。

> 私もこれまで何人、何十人と議論してきましたが今回のように最初から主張に優劣をつけたのは貴兄が初めてです

最初から優劣なんか付けてませんよ。互いの『主張』は単に『主観』の表現である限りは平等に扱かっています。ただ双方の何れかが正しいのかを決めるのは、根本である『客観的事実』の中にある【本質】であり、多くの場合(今回も)、その【本質】は単純明快な足し算の様に…松本大臣の本意や他者の解釈という)『主観』を排除すれば『事実』そのものの中に現れている事が殆どです。
(万有引力という【本質】の場合と同じく)

私は、今年でネットを初めて12年になりますが、それまでには(何百人の中には)貴兄の様に…『主観=観念』こそを物事の根本として、逆に『客観=事実』を単なる「媒体」とする事で、全ては解釈の問題であり、事実から自明な物事の【本質】であっても、しょせん「主観」が違うから確定不可能=認識不可能として「平行線」として逃げる相手は、時々…見かけて相手にしてきましたよ?

貴兄の↓のレス「議論の前提」は、その前の私のレス「解釈以前の問題」を、殆ど読んで無く「引用」すらされてませんでした。
それは貴兄に全く『読解力』が無いのでもしなければ、何も考えず反射的に不毛な反語をしているだけという事でしょう。
貴兄こそ真面目に考えて下さい。
 

議論の前提

 投稿者:FK  投稿日:2011年 7月12日(火)05時54分27秒
返信・引用
  お返事ありがとうございます。私の誤解があったようですね。すみません。

1.>出発点はあくまで【事実=客観】であり、各自の『主観』はその反映に過ぎないからです。

ここまでは理解・納得できますよ。そもそもわざわざ貴兄が「社会的な文脈」という表現を用いなくても、大臣と知事が法律で上下関係の規定がない事くらいは分かっていましたよ。また両者とも被災対住民のためにお互い協力しなければならない事も分かっています。

知事は大臣を使ってできるだけ被災地住民の要望をかなえなければなりません。大臣はそのために関係各省庁に協力してもらい、予算をつける事に汗をかかなければなりません。一方大臣は知事を使って被災地住民の適格な実態を把握しなければなりません。知事はそれに汗をかき優先順位をつけなければなりません。被災地住民が困窮すれば大臣も知事も責任を問われます。一心同体の関係と考えています。

2.前回の【事実】に対する私の質問の回答としては全然納得できません。私の主張を不可知論とか観念論とか断じても回答にはなりませんよ。逆の立場を想定してお考えください。また私が両者の関係を社長と頭取という表現に喩えましたが、どうしてこの事が客観的事実を踏まえていないと批判されるのか、理解できません。客観的な事実は「両者が法律によって上下関係が規定されていない」という事だけですよ。今回の件に限らず喩えを用いれば皆、論理学の基礎が分かっていない侮蔑の対象とするのですか?

3.今回以外の貴兄との議論は国民投票法案のように私の疑問的に納得のいく回答を示してくれたものには支持できますし、買取法案のように支持まではいかなくても私の指摘に対して納得できる回答もありました。また小沢問題でも議論は平行線でしたが、主張の中身についてのやり取りになっていたと思います。私は主張の中身についての指摘でしたら納得できるものは賛同しますし、納得できないものは反論します。いくら反論しても平行線と思えるものはスルーし見ている人の判断に委ねます。

しかし、今回の主観・客観議論は違和感を持っています。貴兄が「社会的な文脈」なるものを用いて、貴兄の主張は客観(客観を媒体にした主観)であり、私の主張は主観(客観を媒体としていない愚かな主観)というように主張の中身でなく、最初から主張そのものに優劣をつけています。それでいて、「貴兄の主張だけが客観を媒体にしている」という証明はこれまでの所全然できていません。そして事ある毎に、主張の中身よりも主張そのものが客観でないとか、客観を媒体にした主張でないとか、論理学の基礎がなってないとかの批判ばかりです。私はそんなのものにいちいち答えるのは不毛と考えています。

4.私の納得できる証明を(私の反論も想定して)もう少し集中して真剣に考えて下さい。貴兄の論理学の土俵には簡単には上がりませんよ。いくら論理学の基礎ができていないと指摘しても、相手は「ハイ、そうです。」とは納得しませんよ。相手を納得させるなら相手の土俵でなければ納得させるのは難しいものですよ。また、どうしても考えが及ばない場合は、不本意でも私の主張も貴兄と同様に客観を媒体にしている主張と認めて下さい。これまでのこの件に関する私への誹謗中傷は問いません。私の松本氏擁護の主張に中身に対する指摘は受けて立ちます。なるほどと思える指摘は同意しますし、納得できない場合は反論します。議論の前提を壊さないで下さい。私もこれまで何人、何十人と議論してきましたが今回のように最初から主張に優劣をつけたのは貴兄が初めてです。

この問題が解決しなければ次のテーマで議論しようという気にはなれません。同様な手法を貴兄が使うと想定してしまいます。

http

 

解釈以前の問題

 投稿者:伊賀篤(管理人)メール  投稿日:2011年 7月11日(月)22時48分17秒
返信・引用 編集済
  こんにちは。

> 論点は貴兄も自分の主張は【主観】だと認めていますので、『客観的な社会的文脈や事実』の解釈ですね。

解釈以前に、まず、私と、貴兄が、果たして同じ『客観的な社会的文脈や事実』から【出発】しているのか?…という事が問題です。

出発点はあくまで【事実=客観】であり、各自の『主観』は、その反映に過ぎないからです。

ですから私が前回…

> 私も、貴兄も、客観的な報道を目指すべき「マスコミ」でさえも、全ての【主張】には『主観』という「媒介」無しに、『主張』を口から外に出る事など有り得ません。

…と書いた事は、『客観的事実』→(反映)→『主観』→(選別)→『主張』となるという事を述べているのですが、それに対して貴兄は…

> 言わんとしている内容は理解していますが、『客観』と『主観』を間違えてますよ。

…という事を述べている事を書いているのを見ると、私は貴兄が上記の過程において…

①『何を客観的事実としているか』
②『その事実(現象)から何を『客観』的な【本質】だとして『主観』に反映させたか?』

…という具体的な過程こそが、人によって異なる『主観』の中で、どれが【妥当】なのかを判断する基本となるという論理が、まだ貴兄には解っていない可能性を示唆しています。

これから私が述べる事を唯物論的な認識論と言います。

例えば…
①リンゴが木から落ちるという同じ『事実』を議論している相互が認識している
②その【現象】から万有引力を『客観的』な【本質】として『主観』に反映させた『主張』を行うのか?それとも『客観的』な【本質】を把握できないでトンデモな『主張』をしているか?
…という具合に、個人によって異なる各々の『主張』は、単なる互いに無差別な「解釈」ではなく、是非(あるいは当否)を議論可能な問題なのです。

では具体的に、松本龍元大臣の発言における『客観的な社会的文脈や事実』とは何でしょうか?

それは「国を代表する担当大臣」と「被災県の県知事」という上下関係が法的に規定されていない『事実』であり、互いに立場は違っても【被災者】を「助ける」という事を第一義にせねばならないという『事実』です。

それを①の前提として、松本龍元大臣がその『事実』に反する言葉を(それが彼の『主観』の中では如何なる意味であれ)、実際に使ってしまったという別の『事実』が加われば、1+1が2になるのと同じく、それが②の『客観的』に彼の発言の【本質】とされてしまうのは、理の当然の事でしょう。
(つまり『主観』では無く『客観』が【本質】を決めるのです)

貴兄は…

> 「助けない」を重視する解釈をすれば暴言と感じる人もいれば、「そのくらいの気持ちを持って」を重視する解釈をすれば問題なしと感じる人もいると思いますよ。

…という様に、これを人によって異なる「解釈」の問題として【本質】は(絶対的には)不可知の問題として逃げようとしてみえますが、これは哲学的に言えば不可知論という観念論の一種です。

あくまで何が【本質】であるか?(異なる主張の何れかが妥当であるか?)の【答え】は、元になる『客観的な事実』そのものの中にあり、相対的に過ぎない『主観的』な『解釈』の中に有るのではありません。
(ましてや、松本龍元大臣自身の『主観』などは、全く関係がありません)

貴兄は前々回に…

> 例えるなら、知事は思わぬ自然災害で工場の大部分を破壊され資金繰りが悪化している大企業の社長であり、大臣は体力的に弱いがその企業と一心同体のメインバンクの頭取のような関係であると考えています。これは私の主観です

…という『事実』とは明らかに異なる『主観』を出発点に「解釈」の多義性に逃げようとしていましたが、こういう『客観的』な『事実』とは異なる単なる『主観』を【出発点】とする限り、貴兄は何時までたっても【本質】には到達できません。

逆に、言葉が使われた状況という『事実』と、(彼の主観的意図や他者の解釈以前に)使った言葉の『事実』から得られた、私の言う彼の言葉の【本質】が的外れではなかった事は、直後に彼自身が行った頓珍漢な弁明では逃げられないと悟った後に、辞任という形で彼自身も受け入れざるを得ないものでしたし(居座れない程に【本質的】だったという事でしたし)、被災地の住人を先頭として世論の多くにも辞任は当然として受け入れられた事で、結果的に私の指摘が【本質】を突いたものである事は、間接的に「証明」されたとも言えましょう。

それでも貴兄はまだ…

> 例えるなら、知事は思わぬ自然災害で工場の大部分を破壊され資金繰りが悪化している大企業の社長であり、大臣は体力的に弱いがその企業と一心同体のメインバンクの頭取のような関係であると考えています。これは私の主観です

…という『主観』だけを根拠に、自己の『主張』が世の中に受け入れられると思い続けるのでしょうか?

そこから先は、貴兄の「生き方」にも関係する問題…(不可知論という主観的観念論を生きる指針として貫くのか?)ですので、もちろんそれは貴兄の自由に属する問題ですが、私はただ貴兄の人生が『不毛』なものに為らない事を祈るだけです。

もうこれで、殆ど【結論】は出た問題ですので、それより、そろそろ次の話題に移りませんか?
(貴兄の「観念論」に付合うのも飽きてきましたし…苦笑)
 

今日から

 投稿者:伊賀篤(管理人)メール  投稿日:2011年 7月11日(月)06時46分47秒
返信・引用
  ウィークデーの為、夜まで御待ち下さい  

解釈

 投稿者:FK  投稿日:2011年 7月11日(月)04時12分51秒
返信・引用
  論点は貴兄も自分の主張は【主観】だと認めていますので、『客観的な社会的文脈や事実』の解釈ですね。

1.>私も貴兄も客観的な報道を目指す「マスコミ」でさえも、全ての【主張】には『主観』という媒体無しに・・・

言わんとしている内容は理解していますが、『客観』と『主観』を間違えてますよ。

2.>問題は、「国を代表する担当大臣」と「被災県の県知事」という上下関係が法的に規定されていない関係の間での発言として、少なくとも【状況によっては】被災者を「助けない」だの、相手を「弟みたい」に置いている発言の【事実】が、やはり客観的な根拠が有って「暴言」とされる事だけです。

それはある【事実】に基づく貴兄の解釈でしょう?貴兄の解釈だけがどうして【客観】と言えるのですか?またどうやってそれが証明するおつもりですか?

「知恵出したところは助けますけど、知恵出さないやつは助けない、そのくらいの気持ちを持って。」というのが正確な【事実】ですが、「助けない」を重視する解釈をすれば暴言と感じる人もいれば、「そのくらいの気持ちを持って」を重視する解釈をすれば問題なしと感じる人もいると思いますよ。強引に【客観】にしようとするのはおかしいと思います。

また宮古市長を「弟みたい」とした発言も、貴兄のように一部だけを抜き取り上下関係を示しているので暴言と解釈する人もいれば、「弟みたいな宮古市長にも甘えるな。」と言った事を紹介して、県知事にも知恵の必要性を伝えたと解釈する人もいますよ。同じ【事実】でも貴兄の解釈だけがどうして【客観】になるのですか?

http?

 

論理学の基礎から勉強して下さい

 投稿者:伊賀篤(管理人)メール  投稿日:2011年 7月10日(日)21時13分16秒
返信・引用 編集済
  こんにちは。脱力させて頂いてありがとう。

> あらま。貴兄の主張は【主観】だったのですか?それならそうと早くから言って下さい。私の理解では『客観的な社会的文脈や事実』を踏まえた主張が【客観】だと考えていましたが、『客観的な社会的文脈や事実』を踏まえていても【主観】という主張ですか?

私も、貴兄も、客観的な報道を目指すべき「マスコミ」でさえも、全ての【主張】には『主観』という「媒介」無しに、『主張』を口から外に出る事など有り得ません。(論理学の基礎でしょう?…苦笑)

しかし各々の『主観』には、それを形成した各々別の経験や事実と言う『客観的』な背景というものがあるのです。(それは私の場合にも、貴兄の場合にも)

問題は、その【背景】となる『客観的』な事実には、対象となる問題の【本質】を示す事柄もあれば、何ら問題の核心とは関係無いといって良い【瑣末】な事実もあります。

例えれば、国家の人事を(各々の主観において)論じる時に、その人物が単に家庭では良き父親として貢献しているなどという事実などが【瑣末】とも言えない程に問題にならないのと同じ様に、
松本龍・元大臣が、その責に耐え得る資質があるか?を論じる時に、元に据える『客観的事実』とは…

> 具体的には、立場とは、「国を代表する担当大臣」と「被災県の県知事」、置かれた状況とは、異なる立場で利害が対立する面もある事は前提として互いに【被災者】を第一にして他者と建設的に具体案を立てねばならぬという、論争の余地の無い『客観的』な事実であって、どこにも主観的な要素はありません。

…という『事実』であって、その前提からすれば…

> 「一部増税にせよ全額赤字国債にせよ国民の負担になる」のだから、それについて「国を代表する担当大臣」が、「被災県の県知事」に対して、甘言ばかりを言う訳にはいかない事自体に対しては、私の側の『主観』においては当然だろうと思いますし、そこまでは『客観的』な状況にも即したものであるでしょう。問題は「国を代表する担当大臣」と「被災県の県知事」という上下関係が法的に規定されていない関係の間での発言として、少なくとも【状況によっては】被災者を「助けない」だの、相手を「弟みたい」に置いている発言の【事実】が、やはり客観的な根拠が有って「暴言」とされる事だけです。

…という事です。

要は…互いの『主観』を支える『背景となる客観的事実』を示し是非を問うのが「対話」でしょうに、一方で貴兄が持ち出した「喩え」は主観だとは断りながらも…

> 例えるなら、知事は思わぬ自然災害で工場の大部分を破壊され資金繰りが悪化している大企業の社長であり、大臣は体力的に弱いがその企業と一心同体のメインバンクの頭取のような関係であると考えています。これは私の主観です。

…などという、何処にも『客観性』が無い単なる『印象』を述べているだけです。
(まぁ『印象』も、それを生じさせた客観的事実の【断片】ぐらいはある筈ですが、貴兄はそれについては何も述べてませんね?)

はい、これで論理学の「基礎」は理解できましたね?

では…

> 問題の【本質】は、あくまで彼が「国を代表する担当大臣」と「被災県の県知事」という関係と、置かれた状況である異なる立場で利害が対立する面もある事は前提として互いに【被災者】を第一にして他者と建設的に具体案を立てねばならぬという、論争の余地の無い『客観的』な事実に反して、少なくとも【状況によっては】被災者を「助けない」だの、相手を「弟みたい」に置いている発言の【事実】があった事であり、全ては客観的な根拠が有って「暴言」とされる事だけです。

…という私の挙げた問題の【本質】が、私の『主観』に過ぎない=私の『主張』の背景には適切な『客観的』な背景が「無い」のか「有る」のか?…YES・NOで答えて下さい。
 

追記

 投稿者:FK  投稿日:2011年 7月10日(日)19時46分58秒
返信・引用
  >私の【主張】は『主観』であっても、貴兄と異なって『客観的な社会的文脈や事実』を踏まえているつもりですが?・・・

あらま。貴兄の主張は【主観】だったのですか?それならそうと早くから言って下さい。私の理解では『客観的な社会的文脈や事実』を踏まえた主張が【客観】だと考えていましたが、『客観的な社会的文脈や事実』を踏まえていても【主観】という主張ですか?

http?

 

根拠

 投稿者:FK  投稿日:2011年 7月10日(日)17時17分31秒
返信・引用
  >・・・などという『客観的な社会的文脈=事実』とは全く異なる「喩え」をなどを出したのですか?

だから私は一貫して主観を述べていると言っているでしょう。私の喩えが客観だとは一言も述べてませんよ。貴兄が勝手にひねくれた解釈をしているだけですよ。

また誤解があるかも知れませんが、私は貴兄のように大臣と知事が全くの対等な関係とは思っていませんよ。また全くの対等の関係であっても大臣・知事を問わず一方が他方を場合によっては叱責してもいいと思っています。

現憲法でも法律でもどちらが上か下かの規定が無いだけで、「大臣と知事は全くの対等である。」とか「どちらかが一方を叱責してはならない。」という条文はありません。だから貴兄が【法律】により自分の主張は【客観】であると主張しても認められないのです。私のように今回のケースで一方を社長と考え一方を頭取と考えても法律的には何ら問題無いはずですよ。それとも貴兄の論理で言うと法律違反になるのですか?

今回のタイトルからすると貴兄の主張は『社会』の主張だから【客観】であると言いたげですが、社
会とは何を意味しているのですか?肝心の説明が全くありませんので認められません。できうれば私の主観による主張の評価では無く、貴兄の主張が【客観】であるとする『根拠』をお示し下さい。

私の主張が【主観】という事は最初から認めているのです。論点は貴兄の主張が【主観】か【客観】かという事ですよ。

http

 

貴兄は『社会』を客観とは思ってないらしい

 投稿者:伊賀篤(管理人)メール  投稿日:2011年 7月10日(日)11時18分28秒
返信・引用 編集済
  こんにちは。御互い予想通り?拘りますね(ねちっこいというか)

> どちらが上でどちらが下とかを法律で規定していない事は理解していますよ

それが判っているのなら…

> 八ツ場ダムの時なんかは石原都知事が前原国交大臣を叱責していましたよ。

…という事実も、今回と同様に「暴言」となる事は判りますね?
ただ、総理に任命された大臣とは異なり、彼は知事だったので、失職しなかっただけで…
(両者に法的に業務命令権などは規定されていない限りは、あくまで対等が前提であるというのが現行憲法下での「客観的な事実」です)

> 私は最初から自分の主張は客観とは述べてませんよ。わたしの【主観】と何度となく言っていますよ。

では何故前々回に貴兄は…

> 例えるなら、知事は思わぬ自然災害で工場の大部分を破壊され資金繰りが悪化している大企業の社長であり、大臣は体力的に弱いがその企業と一心同体のメインバンクの頭取のような関係であると考えています。

…などという『客観的な社会的文脈=事実』とは全く異なる「喩え」などを出したのですか?

どうやら貴兄は…『社会』という事実を『客観』とは思ってないらしいですね。
(全ては貴兄の『主観』の中の出来事ですか?)

> 対等であるから叱責してはいけないのですか?一般論で言っても、対等であっても相手側のミスを叱責する場合はありますよ。【客観】の証明にはなりませんよ。

では…貴兄の引用した元大臣の発言…
「知恵を出したところは助けますけど、知恵を出さないやつは助けない、そのくらいの気持ちを持って。だから昨日、宮古市の山本(正徳市長)にも言ったけど、もうアレが欲しいコレが欲しいはダメだぞ、知恵出せよ、という話をした。あれ俺の弟みたいなものだから。甘えるな。と言った。」
…というのが、対等平等だと言うつもりですか?
知事自体が…客観的に「俺の弟みたい」な相手に話す事を話していると述べて自爆してるじゃないですか…(苦笑)

もし大幅に時間に遅れたのであれば「叱責」も有り得ましょうが、知事は約束時間を守っただけというのは、同席した多くのマスコミの方々も証言してますし、もはや『客観』と言っても良いと思いますが?

要は、松本元大臣は、自分が目上なのだから待たせるのはけしからんという彼だけの『主観』で叱責しただけじゃないですか?

> 天皇陛下や皇太子さまをまたせたらまずいでしょう。なんでも事務的に処理するより関係は良くなる事もありますよ。

私は、仮に「天皇さん」と会う機会があっても、松本元大臣みたいに時間前に来て待っているというヒマが無ければ、時間通りに会いに行きますよ。法的には上下関係は有りませんから。

> だから最初から私の主張は【主観】と述べているではありませんか。貴兄は読解力が無いのですか?面倒くさいので「社会的文脈」という表現を使ったまでです。私が問題としているのは貴兄の主張も【主観】という点です。

私の【主張】は『主観』であっても、貴兄とは異なって『客観的な社会的文脈や事実』を踏まえているつもりですが?…貴兄が事実に合わない「喩え」などを持ち出して自爆されて、笑わせて下さった事には感謝しますが…

それより、読解力が疑われるのは貴兄の方です。何故ならば私は前回…

> 面倒臭がって理解の努力を怠るのは感心しませんね。この両者には【根本的な違い】があります。
> 『社会的文脈(立場や状況)』は【客観】に属すものであって事実は1つであり、他方の『態度』は【主観】によって評価が分かれるものです。

…と文頭で述べましたが、未だに全く理解していない様ですね。
ここまで読解力が無いとなると、私が前々回に述べた…

> 具体的には、立場とは、「国を代表する担当大臣」と「被災県の県知事」、置かれた状況とは、異なる立場で利害が対立する面もある事は前提として互いに【被災者】を第一にして他者と建設的に具体案を立てねばならぬという、論争の余地の無い『客観的』な事実であって、どこにも主観的な要素はありません。

…という事実にも、貴兄は『主観』が入りこむ余地が有ると思っているのかを、再確認せねばなりませんね・・・(どうなんですか…笑)

もしこれが『主観』でなく『客観』である事を認めて頂けるのであれば、貴兄の引用して下さった松本元大臣の発言・・・
「知恵を出したところは助けますけど、知恵を出さないやつは助けない、そのくらいの気持ちを持って。だから昨日、宮古市の山本(正徳市長)にも言ったけど、もうアレが欲しいコレが欲しいはダメだぞ、知恵出せよ、という話をした。あれ俺の弟みたいなものだから。甘えるな。と言った。」
…というのが、「国を代表する担当大臣」と「被災県の県知事」という上下関係が法的に規定されていない関係の間での発言として、少なくとも状況によっては被災者を「助けない」だの、相手を「弟みたい」に置いている発言の【事実】が、やはり客観的な根拠が有って「暴言」とされる事ぐらいは、いい加減に認めて下さいよ。

繰り返しますが、貴兄は…『社会』という事実を『客観』とは思ってないらしいですね。
(全ては貴兄の『主観』の中で判断するだけの出来事ですか?)

> 私の主観ですが、一部増税にせよ全額赤字国債にせよ国民の負担になるわけですから言っている事は『正論』と思っています。どうしてこの発言を否定するのが【客観】になるのか理解できません。

どうやら貴兄は「主・客」の区別が苦手な様なので、あえて私も【前置き】をしますが…「一部増税にせよ全額赤字国債にせよ国民の負担になる」のだから、それについて「国を代表する担当大臣」が、「被災県の県知事」に対して、甘言ばかりを言う訳にはいかない事自体に対しては、私の側の『主観』においては当然だろうと思いますし、そこまでは『客観的』な状況にも即したものであるでしょう。問題は「国を代表する担当大臣」と「被災県の県知事」という上下関係が法的に規定されていない関係の間での発言として、少なくとも【状況によっては】被災者を「助けない」だの、相手を「弟みたい」に置いている発言の【事実】が、やはり客観的な根拠が有って「暴言」とされる事だけです。

> そうですよ。現に貴兄も「知恵を出さない奴には金もださない」と彼の発言を誤解しています。貴兄ほどの思慮深い人でもそうですから、国民の多くは相当誤解していると思いますよ。

正確な引用を有難う。
でも、こういっては何ですが、議論の本質ではなく…瑣末な問題ですね。(本質については下記)

問題の【本質】は、あくまで彼が「国を代表する担当大臣」と「被災県の県知事」という関係と、置かれた状況である異なる立場で利害が対立する面もある事は前提として互いに【被災者】を第一にして他者と建設的に具体案を立てねばならぬという、論争の余地の無い『客観的』な事実に反して、少なくとも【状況によっては】被災者を「助けない」だの、相手を「弟みたい」に置いている発言の【事実】があった事であり、全ては客観的な根拠が有って「暴言」とされる事だけです。
(それでも貴兄は、それを『主観』に過ぎないと言えるのですか?)

今日も、TVで週刊ニュースとして、松本龍・元大臣の発言のリプレーが報道されていて、それを私は見ながらキーボードを打ってますが、多くの人の『主観』が殆ど異論なく収斂される状況の多くの場合というのは、こうした「客観的な事実」が動かし様が無い場合だと、再確認しましたよ…

そういう意味で、私は日本共産党の凋落にも、マスコミのせいには出来ない『客観的』な理由が有ると判断してます。
 

主観・客観

 投稿者:FK  投稿日:2011年 7月10日(日)05時52分20秒
返信・引用
  1.>・・・この両者の関係というか「立場」は客観的な存在である【法律】で規定されている事くらいは御存知とは思いますが・・・

どちらが上でどちらが下とかを法律で規定していない事は理解していますよ。ただ大臣が知事を叱責してはダメという法律もありませんよ。八ツ場ダムの時なんかは石原都知事が前原国交大臣を叱責していましたよ。法律では彼は有罪になるですか?

2.>・・・「喩え」を持ち出した時点で、それは誰からも【客観的な事実】と異なるとの一言で棄却されてしまうです。

私は最初から自分の主張は客観とは述べてませんよ。わたしの【主観】と何度となく言っていますよ。

3.>あくまで対等が前提であるというのが現行憲法下での「事実」は『単なる私の主観』ではなく、法や事実という『客観』そのものです。

対等であるから叱責してはいけないのですか?一般論で言っても、対等であっても相手側のミスを叱責する場合はありますよ。【客観】の証明にはなりませんよ。

4.>・・・県知事は「時間通り」に到着しただけだと言っていますし・・・

貴兄の知事の方には一切非が無いという主張は否定はしませんが、それがどうして【客観】になるのか理解できません。人によってはこういう儀礼的な事を気にする人もいますので、一緒に入って来るなりしてもいいではありませんか。天皇陛下や皇太子さまをまたせたらまずいでしょう。なんでも事務的に処理するより関係は良くなる事もありますよ。

5.徹頭徹尾、貴兄の文章は「主・客」が逆転しています。

だから最初から私の主張は【主観】と述べているではありませんか。貴兄は読解力が無いのですか?面倒くさいので「社会的文脈」という表現を使ったまでです。私が問題としているのは貴兄の主張も【主観】という点です。


6.>「知恵を出さない奴には金も出さない」という発言に『客観的な社会的文脈(立場や状況)』を踏まえた形跡がありますか?

そんな発言はどこにもありませんよ。マスコミのイメージ操作に冒されている貴兄の思い込み発言ですね。正確には

「知恵を出したところは助けますけど、知恵を出さないやつは助けない、そのくらいの気持ちを持って。だから昨日、宮古市の山本(正徳市長)にも言ったけど、もうアレが欲しいコレが欲しいはダメだぞ、知恵出せよ、という話をした。あれ俺の弟みたいなものだから。甘えるな。と言った。

私の主観ですが、一部増税にせよ全額赤字国債にせよ国民の負担になるわけですから言っている事は『正論』と思っています。どうしてこの発言を否定するのが【客観】になるのか理解できません。

7.マスコミのイメージ操作だと言いたい訳ですか?

そうですよ。現に貴兄も「知恵を出さない奴には金もださない」と彼の発言を誤解しています。貴兄ほどの思慮深い人でもそうですから、国民の多くは相当誤解していると思いますよ。

http

 

主観は客観により規定(制限)される

 投稿者:伊賀篤(管理人)メール  投稿日:2011年 7月10日(日)00時30分34秒
返信・引用 編集済
  こんばんは。再投稿ごくろうさまでした。

> ただ面倒くさいので今後は態度を『社会的文脈』という表現で統一したいと思います。

面倒臭がって理解の努力を怠るのは感心しませんね。この両者には【根本的な違い】があります。

『社会的文脈(立場や状況)』は【客観】に属すものであって事実は1つであり、他方の『態度』は【主観】によって評価が分かれるものです。

私は前回…

> 具体的には、立場とは、「国を代表する担当大臣」と「被災県の県知事」、置かれた状況とは、異なる立場で利害が対立する面もある事は前提として互いに【被災者】を第一にして他者と建設的に具体案を立てねばならぬという、論争の余地の無い『客観的』な事実であって、どこにも主観的な要素はありません。

…と述べましたが、この両者の関係というか「立場」は、【客観的】な存在である【法律】で『規定』されている事ぐらいは(恐らく)御存知とは思いますが、貴兄の『主観』である…

> 例えるなら、知事は思わぬ自然災害で工場の大部分を破壊され資金繰りが悪化している大企業の社長であり、大臣は体力的に弱いがその企業と一心同体のメインバンクの頭取のような関係であると考えています。

…という「考え」は、全く別の【社会的な文脈】になってしまう「喩え」を持ち出した時点で、それは誰からも、【客観的な事実】と異なるとの「一言」で棄却されてしまうだけです。

対して「国を代表する担当大臣」と「被災県の県知事」の間には、共に被災者を救わねばならないという義務を負っているという「事実」以外にも、互いの代表している立場が違っている「事実」と、そういう場合に両者に法的に業務命令権などは規定されていない限りは、あくまで対等が前提であるというのが現行憲法下での「事実」は、『単なる私の主観』ではなく、法や事実と言う『客観』そのものです。

どの様な『主観』を持つのも貴兄の自由に属する問題ですが、哲学的に言えば『主観』の背景には、それが産み出された過程で何らかの『客観』により規定(制限)がされます。
貴兄の『主観』が、私を含めた他者の多くの『主観』に対して、訴求力を持つか否か?は、実にこの『客観』的な事実の核心を踏まえて、貴兄自身が『主観』を形成したか否か?に依存するのですよ。

> 私や「日本がアブナイ」さんのように「カチン」と来るまで大臣をまたす知事の方にも非があるという『社会的文脈』で考える人もいますよ。

これは単に、客観的事実がどうだったかによりますが、県知事は「時間通り」に到着しただけだと言ってますし、それはその場に居た多くのマスコミによっても確認されています。

貴兄が「大臣がカチン」ときたという大臣の『主観』を先に持ってきて、逆転して客観的な事実が「待たせた」という所にあると述べる(=怒ったんだから待たせた責任があるだろうという論法)をして、頓珍漢に『社会的文脈』などという全く意味が違う言葉を使っている所を見ると、貴兄には…そもそも『主観』こそが物事の根本にあるという、まるで【主観的観念論】を御持ちの方だと、考えざるを得ませんが?…そう考えると道理で…

> 私の『社会的文脈』からすると誠に愚かな発言だと感じています

…などという、あくまで客観的事実に属する『社会的文脈』を、まるで「貴兄の持ち物」の様に語るという、奇妙な文章を書いているのですね。

徹頭徹尾、貴兄の文章は「主・客」が逆転しています。

同じ意味の事を繰り返しますが、『主観』と『客観』の関係は、『客観』により『主観』が規定(制限)がされているというものであって、客観的事実が何であるかにより大多数の主観は形成されるのですから、あくまで両者の立場や置かれた状況を無視した事実(客観)があったからこそ、大臣は多くの人に指弾(これは主観)される状況が生じたのです。

> 本当に貴兄は松本氏の全文を読んで主張しているのですか?松本氏の岩手県、宮城県知事との面談内容の全文を読みますと、恒久住宅、緊急雇用創出基金、シャトルバス、みんなで食べましょう仮設など具体案を示している発言はずいしょにありますよ。

それは知ってますが、そんなアイディアなどは考えて当然であって、ここで指弾されている問題…『客観的な社会的文脈』を忘れた『発言』自体の責任は免れません。

「知恵を出さない奴には金も出さない」という発言に、『客観的な社会的文脈(立場や状況)』を踏まえた形跡が有りますか?

> 見解の相違とは思っていますが、彼は言葉は乱暴でも「知恵を出せばいくらでも相談に乗るしお金も出す」という印象を私は持っています。私の考えは主観なのかも知れませんが、貴兄の「大臣は悦に浸っているだけ」という考えも主観かも知れませんよ。

貴兄のは本当に唯の印象にすぎないかもしれませんが、私の考え(主観)には「知恵を出さない奴には金も出さない」という発言において『客観的な社会的文脈』を踏まえた形跡が無い事という客観的な理由があります。
(何で有れ、余分な一言で、全てが台無しと断じられるのが、現実社会の厳しさというものでしょう)

> いくつか考えますが、最大の理由は彼の発言の全文を読んで批判した人は少数だと思っています。テレビで、知事との握手を拒んだシーンや知事を叱責するシーン、助けない発言や被災地住民の怒りの声を強調的に何回も放映すれば、それを元に多くの国民は「松本はケシカラン!」と判断するのも当然だと思います。私も当初は彼を擁護する気は全くありませんでした。

マスコミのイメージ操作だと言いたい訳ですか?
まぁ、私も…それが【本質】とは思いませんが、そういう側面も有るだろうという点までは否定まではしませんが…火の無い所に煙は立ちません。

あえて言えば、マスコミの報道姿勢などは「瑣末な問題」でしょう。

つまり、『客観的な社会的文脈(立場や状況)』を踏まえた形跡が無い発言があったという【客観的な事実】によって、多数の【主観】は収斂されたと、私は考えます。
 

社会的な文脈

 投稿者:FK  投稿日:2011年 7月 9日(土)17時12分3秒
返信・引用
  今だによく分かりませんが、伊賀さんは『社会的な文脈』(互いの立場と置かれた状況)から、松本氏は暴言を吐いたと論じているのですね。私はその『社会的文脈』にしろ(互いの立場と置かれた状況)にしろ、それにふさわしくない態度があったからそう判断したのだと考えています。ただ面倒くさいので今後は態度を『社会的文脈』という表現で統一したいと思います。

1.>言葉の内容は『社会的文脈』に拠って異なるという私の主張・・・

この『社会的文脈』は誰がどのようにして決めるのですか?私は単に伊賀さんが自分の主張こそが『社会的文脈』であると言っているに過ぎないと思っています。今回の大臣と知事の関係で言うならば、私は全く対等・平等の関係とは思っていません。例えるなら、知事は思わぬ自然災害で工場の大部分を破壊され資金繰りが悪化している大企業の社長であり、大臣は体力的に弱いがその企業と一心同体のメインバンクの頭取のような関係であると考えています。これは私の主観です。伊賀さんのように全く対等・平等と考える人を否定はしませんが、それも貴兄の主観だと思っています。だからこの問題は平行線だと述べたのです。

2.>つまり同じ『態度』でもそれが許される客観的な『社会的文脈』と許されない『社会的文脈』があり、・・・

これも何をもって『客観的』と論じているのですか?

今回の場合における大臣は許されないは伊賀さんの判断でしょう?伊賀さんは知事の方には一切責任が無く、知事を叱責した大臣は許されないという立場だと理解していますが、私や「日本がアブナイ」さんのように「カチン」と来るまで大臣をまたす知事の方にも非があるという『社会的文脈』で考える人もいますよ。そもそも同時に入ってくれば大臣も叱責はしていないと思いますよ。現に岩手県知事との面談では知事を叱責する事はありませんでした。またその後、宮城県知事は笑いながら「これからは松本バージョンで応対します。」と言っていましたが、私の『社会的文脈』からすると誠に愚かな発言だと感じています。

3.・・・【被災者】を第一にして他者と建設的に具体案を立てねばならぬという論争の余地の無い『客観的』な事実であって、どこにも主観的な要素はありません。

本当に貴兄は松本氏の全文を読んで主張しているのですか?松本氏の岩手県、宮城県知事との面談内容の全文を読みますと、恒久住宅、緊急雇用創出基金、シャトルバス、みんなで食べましょう仮設など具体案を示している発言はずいしょにありますよ。見解の相違とは思っていますが、彼は言葉は乱暴でも「知恵を出せばいくらでも相談に乗るしお金も出す」という印象を私は持っています。私の考えは主観なのかも知れませんが、貴兄の「大臣は悦に浸っているだけ」という考えも主観かも知れませんよ。

4.>彼を擁護しようとする社会的な声が殆ど起きなかった「理由」を貴兄は考えた事がありますか?

いくつか考えますが、最大の理由は彼の発言の全文を読んで批判した人は少数だと思っています。テレビで、知事との握手を拒んだシーンや知事を叱責するシーン、助けない発言や被災地住民の怒りの声を強調的に何回も放映すれば、それを元に多くの国民は「松本はケシカラン!」と判断するのも当然だと思います。私も当初は彼を擁護する気は全くありませんでした。

後、これは個人的な感覚なのですが昔に比べて国民は無性にイライラしていると思っています。そのイライラを誰かを血祭りにしてその鬱憤(うっぷん)をはらそうという傾向になっていると感じています。今回はそのターゲットに松本氏がなったと思っています。

ps)次ぎのテーマの議論はこちらの議論が終わってからにします。申し訳ありません。

http

 

マスコミの責任と、民衆の情報リテラシー

 投稿者:伊賀篤(管理人)メール  投稿日:2011年 7月 8日(金)19時55分24秒
返信・引用 編集済
  こんにちは。私の会社では、掲示板類は会社のイントラネットフィルターでアクセス不可能なので、ブログ類=「日記」とは異なって御返事は常に帰宅後になりますが、御了承下さい。

> ただこれは各々の主観の問題ですので平行線ですね。

どうも…何も理解していませんね。

私の文章力の無さかもしれませんが、言葉の『内容』は『社会的な文脈』に拠って異なるという私の主張が、単に形式的な『態度』によって異なるという様に誤解されたままです。

つまり、同じ『態度』でも、それが許される客観的な『社会的な文脈』と、許されない客観的な『社会的な文脈』があり、それは単に人によって異なる『主観』の問題では無いという事が、肝心の私の言いたかった事です。

『社会的な文脈』という言葉が解り辛ければ、単純に…「互いの立場と置かれた状況」という客観的問題であるという事です。

具体的には、立場とは、「国を代表する担当大臣」と「被災県の県知事」、置かれた状況とは、異なる立場で利害が対立する面もある事は前提として互いに【被災者】を第一にして他者と建設的に具体案を立てねばならぬという、論争の余地の無い『客観的』な事実であって、どこにも主観的な要素はありません。

こういう『客観的な文脈』が異なれば、彼の表面的な『態度』などは、ほとんど社会的な異論も無く【当然】にもなれば(例えば彼が民間会社の社長だった場合)、逆に(今回の場合の様に)ほとんど社会的な異論の余地も無く【論外】にも為るのです。

彼を「擁護」しようとする社会的な声が殆ど起きなかった「理由」を貴兄は考えた事がありますか?

もし『主観』だけの問題であれば、もっと「擁護」しようとする声は「非難」の声程では無いにせよ、一般的に『主観』の相対性という性格から、もっとこれは議論が分かれる問題として、様々な声が上がってきても良い筈です。
(彼の『態度』も社長の発言ならニュースに【すら】為らなかったでしょう)

その【理由】は、決して「マスコミ」による『主観的』な偏向のせいでも何でも無く、こういう『客観的』に議論の余地の無い『社会的な文脈』が有ったからだと見るのが、屁理屈に溺れたりしない、普通の生活者としての良識というものです。

まぁ、この問題を単なる『主観』で片付けて、議論を終りにしたいなら、それも貴兄の自由です。

私は次の議題に移ります。

自明の問題を、貴兄がワザと解らないフリをしているのか、純粋に本当に違いを理解できないのか、私には判断材料が無いので…

> 2.愚民議論をします。よろしくお願いします。

こちらこそ。

> 伊賀さんはこのやり取りについてどういう感想をお持ちですか?

まず、この喩えにおける登場人物である2名に対する、私個人の『主観的』な評価(立場)を、同時に根拠を示して明かにする事が、互いの誤解を回避する上では意味があると(私は)思いますので、忌憚無く言わせて頂きます。

私は両者の発言は、両者ともに自分自身の『客観的な立場』を忘れた「愚論」を発言していると思います。

まず、田中真紀子氏は、人間としての評価は差し控えても(きっと家族とかから見れば多くの美点だって有るのでしょう)、【一政治家】としては、無定見である事は少なくとも自民党の小泉氏から「選挙公約だけ見れば正反対」とも言える民主党の小沢氏に『納得できる総括』もなく乗り換えた事からも明かだと思ってます。
また、時に愚かとも自分には「思える」選択をする時があっても、それでも民衆の【理性】を最後まで信じ抜こうというという「愚民思想」とは対極に立って「愚民思想」に明白な批判精神を「理性的」に発揮している尊敬すべき信念を御持ちの方であるかと言えば…
> マスコミの報道姿勢がおかしいから有権者は賢明な判断ができない。
…という様な「一面」としては「理」が有る様な意味の言葉でも…政治家としては、マスコミは権力から独立して居てしかるべきだと、その報道の自由を尊重すべき『客観的な立場』を忘れて、単なる【泣き言】としか(私から見れば)思えない発言をしている時点で、そこに民衆の理性を常に積極的に信頼しようという姿勢が見られませんので、やはり【政治家】としては、最低の部類だと認識を新たにしました。

次に、田原総一郎氏についてですが、以前から(私は)別にジャーナリストが個人的な意見を述べる事までは否定しなくとも、時に『客観的』な事実を伝える事よりも、自分の「主張」で討論を仕切る事が多いという、一般的に『私見』と『事実』を区別して伝える「ジャーナリスト」としての有るべき姿からは(彼の資質は)逸脱しているのでは無いか?と疑問に思っておりましたが…
> 国民をマスコミ報道を鵜呑みにするほどバカと考えているのか?
…という…やはり「一面」としては「理」が有る様な意味の言葉でも…肝心の彼自身が、他者から信頼されるジャーナリストたるべきという責任感やら自分自身の『客観的な立場』を忘れているとしか思えない発言をしてみえたという事で、やはりジャーナリストとしての資質を疑いました。

2者の不毛な「対話」から見える事は、庶民の「理性」を信頼すべき立場(政治家)の人が立場を忘れ、庶民の「理性」の発揮に貢献できる客観的な情報を提供すべき立場(ジャーナリスト)の人が立場を忘れ、それぞれが『客観的・社会的な文脈』を【仮に無視】さえすれば、場合によっては「正論」にも為り得る言葉を、単に【浪費】するだけで、全く「建設的」という言葉とは縁が無い『空しい言葉』の応酬をしているという事です。

私は、末端とはいえ政治団体に属する人間として、庶民には「理性」があり彼らの判断からは謙虚に学ぶという姿勢が要求されると思っていますし(つまり「愚民思想」を持つ事はタブーだと思ってますし)、現代では多様なニュース・ソースに公平に接しようとする事で少しずつ実際に自分自身の【情報リテラシー】を高めようとしている多くの庶民の姿を、職場でも地域でも『客観的』に実際に見てきています。

貴兄は、前回のレスのタイトルに「賢民、愚民」と付けましたが、それを決める権利は、政治家ではなく、庶民自身にしかありません。

無論、政治家では無い庶民の一人が、自らを含む庶民全体を「愚民」だと断じるのは、その人の自由に属する問題ですが、そういう人は(恐らく)何かを【社会】に対して訴えようとしても、その言葉は相手の心には届かないでしょう。
自分は相手を馬鹿にしておいて、それを隠して相手からは信頼されようというのは、いつか破綻するというのが、理の当然というものでしょうから…

同時に、もし極端に偏向し客観性を失った「マスコミ」が一時的に隆盛を誇ろうとも、大衆の「理性」によって、いずれ歴史の中で自滅していくのも、同じく理の当然ですから、あくまで報道の「自主性」は「反論権」や「批判の自由」と同様に尊重されるべきだと考えます。

この私の考えに、もし反論があればどうぞ。
 

賢民、愚民

 投稿者:FK  投稿日:2011年 7月 8日(金)08時28分45秒
返信・引用
  1.要は態度と発言内容は一体として評価されるもので、私のようにそれを分けて考察するのはおかしいと言っているのですね。

個人的には態度などの評価は相手側の主観による場合が多いと考えています。また今回のケースのようにマスコミによって伝えられる場合は、どう伝えるかによって評価は変化すると思っています。例えば宮城県知事の会談で「何でも相談に乗る。だからしっかり政府に対して、甘えるところ甘えて、こっちも突き放すところは突き放すから、そのくらいの覚悟でやってください。」というような発言を聞く限り、私は大臣が悦に浸っているとは感じられません。

ただこれは各々の主観の問題ですので平行線ですね。

2.愚民議論をします。よろしくお願いします。郵政選挙前後だと思いますが、田中真紀子さんが「マスコミの報道姿勢がおかしいから有権者は賢明な判断ができない。」と述べたのに対して田原総一郎氏が「国民をマスコミ報道を鵜呑みにするほどバカと考えているのか?」と反論していました。

伊賀さんはこのやり取りについてどういう感想をお持ちですか?

http

 

回答

 投稿者:伊賀篤(管理人)メール  投稿日:2011年 7月 8日(金)05時05分27秒
返信・引用 編集済
  同じ『態度』でも、互いの【立場】と置かれた【状況】が異なれば(例えば東京本社社長と現地工場長とか)、それは何の問題も無いという【例】を示して、形式的な『態度』などは2次的な問題に過ぎないと説明した筈ですが…

> 1.『態度』が良ければ彼の『発言内容』は全く問題無しという見解ですか?

私が問題にしているのは、『態度』ではなく、『発言内容』とは実際には現実的に切り離す事が出来ない(一体として評価される)語られた【文脈】=互いの【立場】と置かれた【状況】…ですから、貴兄の様に…文脈から切り離した形式的な言葉の意味だけを『内容』とする事には強い抵抗感が有りますが、『形式的な言葉の意味』だけを言うならば、恐らく何の問題も無いでしょう。
(そんなのには私は意味が無いと考えますが…理由は次の2の回答を参照)

> 2.例えば、「コンセンサスを得ろよ。」という命令口調ではなく、「コンセンサスを得るようよろしくお願いします。」という依願口調であるならば了とする立場ですか?

これも、単に形式的な『口調』という形式的な『態度』の一部を問題視しているとの誤解から来た質問でしょうが、私が【もしも】大臣の立場であれば…例えば…
「何故?未だにコンセンサスが得られないのか?一緒に考えてみませんか?」
…といった、この場合の【文脈】である…対等平等の【立場】と被災者第一の【状況】に即しつつも、かえって逆に馬鹿を相手にする様にも取られかねない【慇懃無礼】と不快を与えるとも言える…2次的な問題『口調』になったかもしれませんが、いずれにせよ『口調』などという形式は、文脈(状況・立場)に比べれば、どうでも良い2次的な物に過ぎません。

語られた状況や立場を踏まえた【文脈】を考えるというのは、あくまで『結果』として被災者に『何を為す事が出来るか』を常に意識しているか?という、単なる表面的な言葉の意味より重要な事の【本質】であるという事です。

> 3.仮に「漁港の問題でコセンサスが得られずお困りでしたら、国の方でベストと思われる案を出し、それに添った最大限の施策を実施致します。」という、言葉は丁寧でも東京主導の復興利権を企(たくら)む主張は了とする立場ですか?

ここまで(上記の1と2)の回答を貴兄が理解できたなら、この3に対する回答は不用でしょうが、一応は回答しますと、この場合の『発言内容』は『口調や態度』は丁寧でも、逆の意味で【文脈】…対等平等の【立場】と被災者第一の【状況】に即したものとはなっていませんから、無論の事ですがNGです。

御理解を頂けましたか?

> マスコミのイメージ操作、愚民議論は異論がありますがこの後に致します。

どうぞ遠慮無く、いくらでも御相手させて頂きます。
(ココは…土佐高知さんの場合=ブログとは違い、その為の場所ですから)

私が、一般庶民を「賢明」だと思う【側面】は、こうして私(アスペルガー障害で障害者3級)の様に、わざわざ「理屈」で理解しようと努力しなくても、私には全く無い「直感」で【本質】を見ぬくという状況が、時として有るからですが…
(また逆に時として「戦争」を選ぶ程に愚かな【側面】も有る事までは、私自身は「否定」はしませんが…)
 

態度

 投稿者:FK  投稿日:2011年 7月 8日(金)01時30分43秒
返信・引用
  お返事ありがとうございます。

>だから彼(松本龍氏)は、肝心の被災者を救うという『結果』など眼中に無く、自分自身が大臣であるという立場に酔って説教するという悦に浸っているだけの人間として・・・

貴兄がそう判断したのは、結局は、彼の発言内容では無く、マスコミによって紹介された彼の上から目線の『態度』でしょう?違うのですか?『態度』で無ければ何なのですか?貴兄の主張を何回読んでもよく分かりません。

お尋ねしますが、

1.『態度』が良ければ彼の『発言内容』は全く問題無しという見解ですか?

2.例えば、「コンセンサスを得ろよ。」という命令口調ではなく、「コンセンサスを得るようよろしくお願いします。」という依願口調であるならば了とする立場ですか?

3.仮に「漁港の問題でコセンサスが得られずお困りでしたら、国の方でベストと思われる案を出し、それに添った最大限の施策を実施致します。」という、言葉は丁寧でも東京主導の復興利権を企(たくら)む主張は了とする立場ですか?

ps)マスコミのイメージ操作、愚民議論は異論がありますがこの後に致します。

http

 

態度ではありません。

 投稿者:伊賀篤(管理人)メール  投稿日:2011年 7月 7日(木)18時34分35秒
返信・引用 編集済
  同じ『態度』で同じ『内容』の言葉を、例えば…民間会社の東京本社の社長が仙台工場の工場長に対して【知恵を出せ】とか【合意形成しろ】だとかの【叱責】を加えたとしても、そんなのはニュースにもならないでしょう。

この事からも、私は単に形式的な『態度』などは【副次的】な事に過ぎず、事の本質は【客観的な】互いの立場と状況を前提として、実践的に何を大事にしていたのか?…という(行為に意味を与える環境的な)問題が、『同じ内容の言葉』でも、率直な「正論」の表明にもなれば、下劣な「暴論」の垂れ流しにも為ると言いたいのです。

私は前回の書きこみでも書きましたが、実際には現実的に(そんな評価は)有り得ない事ですが、言葉の『内容』だけを、【互いの立場や状況】という客観的な文脈から切り離す事が可能であれば、そんな括弧付きの『内容』には、恐らく同意も共感も出来ると思います。

しかし、そんな形而上学的な…客観的状況や立場という文脈を離れた『内容』などは、現実世界では何の意味も無く、何かを生産的に産み出す事も有り得ません。

だから、彼(松本龍氏)は、肝心の被災者を救うという『結果』など眼中には無く、自分自身が大臣であるという立場に酔って説教をするという悦に浸っているだけの人間として、言葉の表面的な意味ではなく、相互の置かれた「立場」や「状況」という【客観性】から判断せざるを得ない、大臣失格者という事です。(単なる2次的で形式的な『態度』などを問題にしていません)

これは貴兄の問題意識…

> マスコミのイメージ操作でいくらでも世論誘導はできると思っています。またこの事が『日本の政治の最大の癌』だと思っています。民主党議員も自民党議員も共産党議員も、自分達に関係無い事柄は、マスコミ世論に媚びる政治家ばかりです。

…が、私の(そして多くの世論を形成する賢明なる生活者も恐らく共有する)問題意識とは、如何に掛け離れているのか?…を自己表明しているに過ぎません。

物事の『本質』を外しているから訴求力が無いのであって、それは他者(常に偏向するマスコミを含)のせいではありません。

今時は、常に偏向するマスコミに踊らされるだけで次分自身に【情報リテラシー】の無い実践的な生活者などは、貴兄の「愚民思想」が産み出した主に貴兄のイメージの中に、主に存在するものでしょう。

私は別に…貴兄が【政治家】でさえ無ければ貴兄が「愚民思想」を持っていようがいまいが、どうでも良い(貴兄の自由)とは思いますが、それが基本に座ったままでは、貴兄の目指す社会を実現する社会運動は、決して上手くは発展しないでしょう。
(心の中で馬鹿にしている相手に理解を得ようというのは一般的に無理があります)

私は、今日の「日記」でも書きましたが、我が日本共産党についても劣悪な「愚民思想」に染まっていると考えており、その意味で現状の衰退は、自業自得というのが物事の「本質」であって、マスコミによる偏向などは(それが常態化している事ぐらい多くの人は知っており)、瑣末な問題に過ぎないと思っています。

その意味では、(誉められた事では無いとはいえ)政治の世界では良くある瑣末なスキャンダルに嵌められた被害者である小沢氏についても、人間的には同情はしても、もしも自己の政治的な勝敗をマスコミのせいにしているだけだとしたら、それは「そこまで」の人間だという事になってしまいますが…
(そこまで…小沢氏「本人」は…恐らく馬鹿では無い筈だと、私ですら思っていますよ?)
 

見解の相違

 投稿者:FK  投稿日:2011年 7月 7日(木)16時43分39秒
返信・引用
  伊賀さんは『発言内容』よりも『態度』を重視しているのですね。

私は『態度』についてはマスコミのイメージ操作でいくらでも世論誘導はできると思っています。またこの事が『日本の政治の最大の癌』だと思っています。民主党議員も自民党議員も共産党議員も、自分達に関係無い事柄は、マスコミ世論に媚びる政治家ばかりです。

見解の相違かも知れませんが、国と地方が同等とお考えなら国の担当大臣を「カチン」と来るまでまたす宮城県知事の方にも問題があると思います。現に岩手県知事との面談ではマスコミが強調している「助けない」発言もありますが、詳しく見るとそんな事は言っていません。岩手県知事との面談は言葉使いは同じでもスムースに行なわれたのではないかと想像します。友好的なシーンだけをマスコミが好意的に連続して流せば世論は違うものになると考えています。

震災復興に一部増税の話も出ていますし、全額赤字国債としても将来の国民負担です。本当に困っている人は助けたいという想いはありますが、被災地県知事が「何でもかんでもっ面倒見てくれ」という発想では困ります。知恵合戦は正論だと思います。特に宮城県では共産党も指摘していますが漁港の集約化の問題で、知事の方針と漁民が対立している事実があります。それに対して松本氏の「県でコンセンサスを得ろよ。そうしないと我々は何もしないぞ。だからちゃんとやれ。そういうのは。」という発言も言葉は乱暴かもしれませんが正論だと思っています。最初から国があれこれちょっかい出すより、先ずは地元でベストと思えるような案を出し、それを国が(財政規律を考えて)支援する形の方が望ましいと考えます。

私はマスコミのイメージによる『態度』よりも『発言内容』を重視しています。これは小沢氏も共産党もマスコミによるイメージ被害が同様にあると考えています。

http

 

発言内容

 投稿者:FK  投稿日:2011年 7月 7日(木)02時23分39秒
返信・引用
  >・・・というFKさんの問いには、彼が(あの場で)発した全ての発言としか答えようがありません。

このお答えは「発言内容」では無く、「態度」を問題にしているのですね。その点については私も同意見です。「カチン」ときても(後で電話で注意するりして)「もっとうまっくやれよ~」とは感じました。キレるのが早すぎます。私としては『発言内容』について議論したかったのですが、『態度』を問題とするなら議論は成立しませんね。私は彼の発言内容は(最後のマスコミに対する恫喝を除いて)暴言には値しないと思っています。

http

 

どの発言にも…

 投稿者:伊賀篤(管理人)メール  投稿日:2011年 7月 6日(水)21時31分54秒
返信・引用 編集済
  …一言で言えば、相手と対等平等の立場で「対話」を築き上げる事で、被災者にとっての「利益」となる互いの「認識」の発展を勝ち取ろうという、民間企業で営業職を始めとして、自分とは異なる人間に接しながら働く社会人ならば【常識】とも言える真摯さ(真面目さ)が無い事に尽きます。

そりゃ、彼にしてみれば、相手(県知事)は彼に比べて、自衛隊官僚上がりの要領が良いだけで【知恵を絞る】という事には縁遠い存在に「思えた」かもしれません。
後から入室した事も、元官僚らしく時間を厳守しただけで、彼にしてみれば、親分を迎える子分みたいな【謙虚さ】が無いと「思えた」かもしれません。

しかし、私は彼の心の中での…彼自身が持っている【主観的】な「率直さ」やら「真剣さ」などを問題にしてませんし、そんなものは有って当たり前だとすら思っています。
(民主党も自民党も公明党も嫌いだという就任時の発言は「率直」だとは思いましたが)

そして私も(恐らく彼と同じく)、相手の県知事に評価すべき点は見出せません。

だからこそ(恐らく)、ハッパをかける意味で、年長者が年少者を叱る様に、あくまで括弧付きの「真面目さ」で、発言したのだろうと思いますし、その気持ちも解らないではありません。

しかし、もしも彼に、何よりも(相手よりも)大切なのが【被災者】だという「真摯さ」があれば、(特に利害が必ずしも一致しない他者を相手にする場合には)得られる【結果】について真剣に考える筈であり、そうであれば相手が如何に愚かであれ、人間関係として…営業職の様な【真摯な提案型の対話】を試みるというのが当然の対応ですが、実際に彼のした事は、説教をする年長者としての【悦に浸っていた】だけと断じられても仕方が無い「放言」でした。(それを指して私は「下劣」と言ったのです)

他にもっと…具体的には、例えば…何々をこうしてみましょうとか…互いに出来る事と出来ない事があるにせよ一緒に考えましょうとか…そういう態度で幾らでも「建設的に対話」できた筈です。
(何も私は「卑屈」になれと言っている訳ではありません)

その上下関係(尊大さ)は、ヤクザの親分・子分であれば許されるでしょうが、仕事で「結果」を出す事を求められる一般の社会人労働者ですら職業倫理的に認められるものでもありませんし、まして他者の命をも背負っている「政治家」において認められる筈はありません。

その「真摯さ」の欠如という、状況と立場と発言に現れた【客観的】な事実が、「同じ言葉」であっても親が子供を叱る時とは違う、まさしく「暴言」に【全部】を為さしめているのです。

ですから…

> 具体的に彼のどの発言が暴言に値するとお考えですか?

…というFKさんの問いには、彼が(あの場で)発した全ての発言としか答え様がありません。

私の認識は以上です。(FKさんの認識とは違うかもしれませんが)
 

よろしくね。

 投稿者:イリイチ・・・・・・改め「イエニー」  投稿日:2011年 7月 3日(日)23時48分4秒
返信・引用
  いろいろ、ゴチャゴチャ言ってないで、
福島へ来てください。

絶対、えるものがあります。

と言うか、、、、

どうにかしてほしいのです。
 

いろいろ言ってないで、まずは福島へ・・・

 投稿者:イリイチ・・・カールでもよろしいですわ・・・  投稿日:2011年 7月 3日(日)23時29分1秒
返信・引用
  福島へ・・・
ボランティアへ・・・

いろいろ言いたいことはあるでしょうが、
まずは、行ってみることです。

「行かないで何を言っているんだ!」
なんてことではありません。

「行くことで、いろんなことが・・・」
ということです。
 

「・・・い」の「い」は余分でした。すみません。

 投稿者:イリイチ・・・カールでもよろしいですわ・・・い  投稿日:2011年 7月 3日(日)23時18分47秒
返信・引用
  「あいさつ」を忘れました。

どうとたらいいかわかりませんが・・・

よろしくお願いします。
 

「発送電分離」???

 投稿者:イリイチ・・・カールでもよろしいですわ・・・い  投稿日:2011年 7月 3日(日)23時07分48秒
返信・引用
  買取法案については、いろいろ欠点もあるでしょうね。
でも、いろいろ手直しは可能と思っちゃいますよ。
低使用者や低所得者に無付加や軽減策等。

でも、「発送電の分離」???
何かいい事があるのですか?

どうせ、分離しても、グループをつくるのでしょうし、
アメリカの例をみると・・・

所詮、資本の論理のような・・・
 

買取法案

 投稿者:FK  投稿日:2011年 7月 1日(金)03時51分12秒
返信・引用
  伊賀さんの立場は、今の所支持はできませんが理解・納得はできます。

私はこの法案はそもそも脱原発を目指した法案では無いと認識しています。どちらかと言うと自然エネルギーの普及を化石燃料の代替手段(地球温暖化対策)と考えて作った法案だと思っています。菅内閣では新成長戦略として原発を中東やベトナムに仙谷氏を中心に積極的に売り込んでいました。脱原発の理念とか哲学は微塵にも感じられません。それをこの法案によって自分はあたかも当初から脱原発派として人気取りに利用しているだけだと思っています。

マスコミはおおむね菅さんは脱原発派という論調で報道していると感じています。脱原発を訴えるブログでも今回の法案を無条件に支持し、反対の者は原発推進派というレッテルを貼っているように感じます。それとは一線を画す伊賀さんの冷静な判断力に敬意を表します。
 

全面戦争の「私の」定義

 投稿者:伊賀篤(管理人)メール  投稿日:2010年 6月19日(土)10時52分15秒
返信・引用 編集済
  こんにちは。仕事が佳境で…(言い訳)、レスが遅くなって、すいませんでした。

> 第一に、伊賀さんの論理構成を見るに、「自衛権の行使」の状況として事実上、「全面戦争」を意味しているように見えます。しかし私のほうはそこまでの事態はあまり想定せずに議論してきました。つまり大東亜戦争に匹敵するレベルの大戦争は私は基本的に想定外でした。むしろ局地戦的な戦争をイメージしていました。

誤解が有るようですが、私も【全面戦争】という時に、「大東亜戦争に匹敵するレベルの大戦争」(世界を2分する様な戦争)は「あまり」想定していません。(もちろん、世界で今後も、集団的自衛権=軍事同盟が主流となる限り、その危険性は排除できませんが…)

私の「全面戦争」の【定義】は、戦争当事国の片方もしくは両方において、その「国民と国土の殆ど全て」が戦争に、何らかの形で、巻き込まれたり、被害を蒙る事態に至る戦争の内で、「国民と国土の殆ど全て」が戦争に晒された国の側(両方とは限りません)にとっての「戦争」です。それは紛れも無く、巻き込まれた国民にしてみれば「全面戦争」以外の何物でも無いでしょう。

それが双方の国にとっての「全面戦争」の場合もあれば(例えば朝鮮戦争の様に)、逆に片方の国(例えばイラク)にとっては「全面戦争」であっても、軍事力や軍事技術で圧倒する他方の国(例えば米国)にとっては、単なる片手間の「地域紛争」レベルでしか無い場合も有り得ます。

(イラクについても、【仮定】として、本当に大量破壊兵器を所持していて、それを米国まで到達させる事が可能な大陸間弾道ミサイルでも、もしも大量に持っていれば、イラク側だけの「全面戦争」でなく、米国にとっても「全面戦争」になっていたでしょうが)

私は最初からこの定義に従って話していたつもりですが、この定義によれば、軍事的に劣勢の側だけ(つまり【小国の視点】から)では「全面戦争」となり、逆に【大国の視点からだけ】歴史を見れば、第2次世界大戦後には、世界には「地域紛争」しか無かったという話になるでしょう。

その意味で…

> 第二次世界大戦後の戦争は基本的にそのようなものであったと思います。たとえば、フォークランド紛争はイギリスとアルゼンチンの戦争になりましたが、全面戦争に到る事無く、短期的に決着がついています。ベトナム戦争は長期化しましたが、しかしこれは「侵略された」ベトナム側の軍隊が米国のミサイル基地を攻撃するというものではなく、米軍を領土から追い出すための自衛の戦闘と言っていいでしょう。イラク戦争にせよ、アフガン戦争にせよ、そうです。ミサイル等を自国に発射してくる【相手国内】のミサイル基地を放置しておいて、「自衛権」を【あくまで日本領土内への外国勢力の侵略に対する迎撃・反撃という性質のものであり、彼らを追い出す事までを目的とする】という事が、戦後の侵略された側のたいていの戦争のあり方です。
米軍が対日攻撃という事態に対してどれほど積極的に関与してくるかという問題をとりあえずおいて置けば、日本の自衛隊とて、せいぜい迎撃の機能を持つだけですから、敵地のミサイル基地を攻撃するような戦争を展開できるのか、そもそも制空権を握れないでしょう、と言うのがあります。侵略に対して自衛権を行使する結果、戦争に到っても、全面戦争などに至らぬ前に、戦争を終結し、侵略勢力を退去させるような外交的努力は、当然ながら行われるでしょうし、それがまあ、大部分の国家間戦争の例のサンプルだと思います。


…というのは、あくまで一方の側(侵略された小国の側)に、相手国内への反撃を可能にする兵器が無かったという【状況に依存】しているに過ぎず、朝鮮戦争にしてもベトナム戦争にしても、米国国内では核兵器の使用も検討もされたそうですが、その様な戦術を【仮に】片方が(大国側が)採用した場合に、反撃すべき侵略を受けている小国側で、もしも「可能」な方法(兵器もしくはテロという手段)があったら、反撃しない戦略的な理由はありませんし、単に【道義的】に被侵略者側の国の【あくまで領土内への外国勢力の侵略に対する迎撃・反撃という性質のものであり、彼らを追い出す事までを目的とする】という、崇高な「自衛」の【理念に依存】していた訳では無いと思います。

また、私の「定義」に従えば、第2次世界大戦後の戦争が、全て局地紛争というのも、それはあくまで【大国の視点】という事になります。

更に具体的に展開すれば、その意味で、日本が「小国」なのか?という問題が有りますが、現実に人工衛星を打ち上げる技術を持ち(それは長距離ミサイルの技術に容易に転用できます)、日本の世論のごく一部にある核武装論(それは数年もあれば可能だそうですが)という状況を見れば、そして決して憲法は不変の前提では有りませんから、日本を取り巻く国際情勢が緊迫度を増し、それを回避する事前の外交努力も尽くされず、国内が主戦派に席捲される様になれば、自国だけの【あくまで領土内への外国勢力の侵略に対する迎撃・反撃という性質のものであり、彼らを追い出す事までを目的とする】という理念は、長距離ミサイル等が存在するという状況下では、あえなく棄却される事でしょう…

ですから、私の定義した、自国の「国民と国土の殆ど全て」が戦争に、何らかの形で、巻き込まれたり、被害を蒙る事態に至る戦争=「全面戦争」という事態になれば、綺麗事など、何も通らなくなり、自国・相手国を問わず、大量の一般犠牲者は避けることは不可能と判断し、あくまで、小国=被侵略国にとっての視点でも「局地紛争」レベルで、外交的に終息させ得ず(またはしようとせず)、全国民を巻き込む「全面戦争」に至った場合の「降伏論」に、最後の手段としての意味が生じるのだと思っています。

また付言すれば、仮想敵が何処の国であれ、人口が一億二千万人の日本全域を、侵略・統治しようと、もしも現実的に考えるならば、百万人単位以上の軍事力が必要である事は明確であり、それは小国?の日本にとってだけでなく、相手国にとっても「全面戦争」と為らざるを得ないのは明白な気もします。

> 日露戦争なども、これは帝国主義戦争でしたが、全面戦争という事態には到らずに外交的努力で終結させました。その種の外交的政策に失敗すれば、当然、その政権の政治責任は問われます。これは日本の過去の歴史においてもそうでした。伊賀さんの立論というのは、こうしたプロセスがあった上で、しかしすべて失敗して、ついには全面戦争に到ったという状況を専ら想定して議論されているということなのでしょうか?

この「日露戦争」の例も、前に小田さんが挙げた「フォークランド紛争」の例も、どちらも厳密には双方とも「自衛」を目的ともしていないと、私には思われるのですが、どちらも「全面戦争という事態には到らずに外交的努力で終結させました。その種の外交的政策に失敗すれば、当然、その政権の政治責任は問われます」というのは、その通りでありありますが、こうした不適切な例をして、「こうしたプロセスがあった上で、しかしすべて失敗して、ついには全面戦争に到ったという状況を専ら想定して議論されているということなのでしょうか?」と言われると、それは違うよ!…って言いたくもなります。

私の想定しているのは、不当な【侵略】を受けようとされている国の側としても、せいぜい許容され得るのは、偶発的・局地的紛争の膠着状態までで、あとは外交的努力を尽くすべきで、どちらの国の側にとっても「全面戦争」に至るぐらい悪化する様であれば、本当の意味で「自衛権」を「自衛」=【あくまで領土内への外国勢力の侵略に対する迎撃・反撃という性質のものであり、彼らを追い出す事までを目的とする】に留め得るのは、独立闘争ぐらいだろうという前提認識から、現代の兵器の発展状況も鑑みて、最後のカードである「降伏論」も切らざるを得ないという議論です。

(イラクでは、米軍の劣化ウラン弾などで、特に南部を中心に、今も被害が続いてますし、あれこそ最初から、イラクにとっての「全面戦争」を回避し得なかったフセイン政権は、責任を取って解体して降伏を受け入れた方が、遥かに国民にとってはマシでしたでしょうね)

> 第二に、国家と政権の違いの問題です。外交の失敗に対して、そして望まぬ戦争状態が避けられないという状況において、政権の責任が問われ、その政権の終了が主張されることは現実にもあります。他方、そのようなコンテキストで、「国家」の責任を取らせるとは何を意味するのか?まあ、一例は第1次世界大戦終戦間近でのロシアにおける2月革命などがあるのでしょうが、そういうことなのか?しかしその場合であっても、自衛権の行使が先か、国家の打倒が先かという優先性の問題があります。もちろん、全面戦争のように、本来の意味での自衛が目的でない事態においては、ロシア革命後の政府が講和交渉に動いたように、戦争終結に向けて動くというのは解かります。しかしその種の全面戦争は、自衛権の行使の定義を超えるものであって、現憲法的にも我々はできないものです。

その前に、私は前回…

************
私は、「国家」が「階級敵の道具」だから、「国家の起す戦争」に反対した事は、これまで、一度も無いつもりです。

ワイマール体制下の「民衆」が「ナチス」を産んだ様に、毛沢東の指揮した農民・労働者の反日独立闘争が源流にある中国共産党が「チベット」を侵略した様に、どの「階級」だろうと、歴史を見ても【諸国民の集計された(政治的)意思としての性格】それ自体が「正義」に叶うとは限りません。要は「国民」の「平和的生存権」を守れなくなった(契約を反故にした)「道具」としての国家は、何れの「階級」のものだろうと、平和的な連続性が有れば有るに越したことはありませんが、いずれ「解体」と「再構築」が必要だというのが、私の国家観です。
************

…と、述べましたが、その中で「平和的な連続性が有れば有るに越したことはありませんが」と記述した部分で、平和的かつ連続性があるのが、同じ憲政下での「政権」の交替になりますし、平和的でも無く基本法(憲法)上の連続性も無いのが、既存の「国家」自体を否定する「革命」になるでしょう。
(私は何れになるのかは、齎された被害に対する、国民の意識と選択しだいだと思っていますが)

小田さんは、「しかしその種の全面戦争は、自衛権の行使の定義を超えるものであって」と仰いますが、私の「定義」する「全面戦争」は、地理的・世界的に見れば「局地的」なものであっても、小国側にとっては「全面戦争」という事態は、有り得る事ですから、いわゆる「自衛権」の行使として【解釈もでき得る】という事です。そして私の言いたいのは、現憲法が不変の絶対では無い限り、その「自衛」という言葉は、ミサイル等の長距離兵器の技術の登場にもあいまって、一旦「全面戦争」に突入すれば(またはしそうな情勢になれば)、際限無く拡大解釈もされ得るし、本来の意味での「自衛」=【あくまで領土内への外国勢力の侵略に対する迎撃・反撃という性質のものであり、彼らを追い出す事までを目的とする】に留め得るのは、独立闘争ぐらいだと、思っているのです。

> ウン、依然として、伊賀さんの議論は良く解からないです。今回はまだ、私も整理できていませんが、時間がないのでとりあえずこんなところで

少しは整理されたなら良かったのですが
 

(無題)

 投稿者:小田  投稿日:2010年 6月16日(水)18時47分38秒
返信・引用
  こんにちは

再びのレスをありがとうございます。

幾つかの議論の整理が必要かと思いました。第一に、伊賀さんの論理構成を見るに、「自衛権の行使」の状況として事実上、「全面戦争」を意味しているように見えます。しかし私のほうはそこまでの事態はあまり想定せずに議論してきました。つまり大東亜戦争に匹敵するレベルの大戦争は私は基本的に想定外でした。むしろ局地戦的な戦争をイメージしていました。第二次世界大戦後の戦争は基本的にそのようなものであったと思います。たとえば、フォークランド紛争はイギリスとアルゼンチンの戦争になりましたが、全面戦争に到る事無く、短期的に決着がついています。ベトナム戦争は長期化しましたが、しかしこれは「侵略された」ベトナム側の軍隊が米国のミサイル基地を攻撃するというものではなく、米軍を領土から追い出すための自衛の戦闘と言っていいでしょう。イラク戦争にせよ、アフガン戦争にせよ、そうです。ミサイル等を自国に発射してくる【相手国内】のミサイル基地を放置しておいて、「自衛権」を【あくまで日本領土内への外国勢力の侵略に対する迎撃・反撃という性質のものであり、彼らを追い出す事までを目的とする】という事が、戦後の侵略された側のたいていの戦争のあり方です。米軍が対日攻撃という事態に対してどれほど積極的に関与してくるかという問題をとりあえずおいて置けば、日本の自衛隊とて、せいぜい迎撃の機能を持つだけですから、敵地のミサイル基地を攻撃するような戦争を展開できるのか、そもそも制空権を握れないでしょう、と言うのがあります。侵略に対して自衛権を行使する結果、戦争に到っても、全面戦争などに至らぬ前に、戦争を終結し、侵略勢力を退去させるような外交的努力は、当然ながら行われるでしょうし、それがまあ、大部分の国家間戦争の例のサンプルだと思います。日露戦争なども、これは帝国主義戦争でしたが、全面戦争という事態には到らずに外交的努力で終結させました。その種の外交的政策に失敗すれば、当然、その政権の政治責任は問われます。これは日本の過去の歴史においてもそうでした。伊賀さんの立論というのは、こうしたプロセスがあった上で、しかしすべて失敗して、ついには全面戦争に到ったという状況を専ら想定して議論されているということなのでしょうか?

第二に、国家と政権の違いの問題です。外交の失敗に対して、そして望まぬ戦争状態が避けられないという状況において、政権の責任が問われ、その政権の終了が主張されることは現実にもあります。他方、そのようなコンテキストで、「国家」の責任を取らせるとは何を意味するのか?まあ、一例は第1次世界大戦終戦間近でのロシアにおける2月革命などがあるのでしょうが、そういうことなのか?しかしその場合であっても、自衛権の行使が先か、国家の打倒が先かという優先性の問題があります。もちろん、全面戦争のように、本来の意味での自衛が目的でない事態においては、ロシア革命後の政府が講和交渉に動いたように、戦争終結に向けて動くというのは解かります。しかしその種の全面戦争は、自衛権の行使の定義を超えるものであって、現憲法的にも我々はできないものです。

ウン、依然として、伊賀さんの議論は良く解からないです。今回はまだ、私も整理できていませんが、時間がないのでとりあえずこんなところで・・・。
 

国家の義務と、国民参加の有り方

 投稿者:伊賀篤(管理人)メール  投稿日:2010年 6月15日(火)22時20分56秒
返信・引用 編集済
  こんにちは。

今回は、本当に、レスを頂けた事に安堵というか感謝します。
(半分、もう愛想を尽かされてしまったかと…苦笑)

> 文書上でのやり取りであっても誤解は良くあることです。相手の意図がだんだんと理解しあえればよいと思います。

そういって頂けると助かるのですが、今後は、たとえ「追記」といえども、誤解され得る(多義的な解釈が可能な)事に触れる場合は、可能な限りの説明を添える努力を怠らない様にします。

> 私は大東亜戦争を想定しての自衛権は主張していません。

それは無論、私も小田さんが、そのような「自衛権」の解釈をしているとは、思ってませんし、その様な書き方は、していないつもりです。(そういう論者も世の中には居るというだけで…)

> 現状での日本国憲法を前提する限り、大東亜戦争のような「全面戦争」を日本国家が行うことは出来ないわけですから。ただ、私は一概に、国家の自衛権行使の為に国民に戦争参加を指揮する権限を全面否定するわけでもありません。しかし同時に、自衛権の定義は合意が難しいという問題もありますし、日本を始め、現代の多くの欧米諸国では徴兵制は存在せず、軍隊は存在してもそれへの参加は自発制です。その場合、国家は軍隊に属する人間への戦争参加の指揮権を持ちますが、いわゆる民間人には持たないでしょう。治安維持法や国家総動員法は民間人の直接の戦争参加ではないにしても、間接的参加を意味しますが、これらが自衛権の範疇かと言うのも、本来、冷静な議論が必要でしょう。特に、情勢においては日常的には護られるべき国民の権利も制約されるというのは戦争時にはしばしば為されて来ており、それは政治哲学的にはどう評価されるべきなのか、等々、エモーショナルに人権論や平和論を掲げて攻撃するだけでなく、きちんと勉強する必要があると思っています。


私は、実際に自衛隊で国民(人命)の為を想って、自発的に参加されている方々に対しても、(敵を効果的に殺す為の訓練をしている事も含めて)決して否定的では無く、現状の「囚人のジレンマ」的な状況下において必須とされる【抑止力】を発揮する為に、(自分の替わりに)貢献している事と、現状の日本国憲法下では恐らく【違憲】の状態に置かれつつも、そのインセンティブを維持されている事には、敬意すら感じます

そういう意味では、私自身も決して、緊急避難的な意味での「自衛権」を担う人や組織に対して、「エモーショナルに人権論や平和論掲げて攻撃」しようという意図は、決して有りません。

ただそれでも、小田さんが上段で仰る通り、「治安維持法や国家総動員法は民間人の直接の戦争参加ではないにしても、間接的参加を意味しますが、これらが自衛権の範疇かと言うのも、本来、冷静な議論が必要でしょう。特に、情勢においては日常的には護られるべき国民の権利も制約されるというのは戦争時にはしばしば為されて来ており」という問題に対して、それが【仮に】時の国家(自民党政権だろうと共産党政権だろうと)にとって避け難い状態を想定しても、それらはあくまで【緊急避難】として位置付け、一種の脱法状態であるという、憲法的な制約(歯止め)は必要であろうという認識から、小田さんが上段の最初で述べた「現状での日本国憲法を前提する限り」という、前提条件は外せないだろうという意味で、9条の改憲には、反対しています。

日本共産党が取っている、自衛隊の当面(何百年?)の存続を認めた上での「武装中立」と、同時に9条の改憲に反対しつつ「その【精神】を実現できる国際情勢の実現に努力する」というのは、形式的な法制度論からすれば「矛盾」そのものであっても、それは国際情勢次第では「国家」は何処までも何をしても許されるという現実に起こりうる別のリアリティーのある「矛盾」に対峙する為には、許容されるべき「戦略」と、私は考えます。

(現状の「党」に肯定的な事は、あまり言いたくない私ですが…苦笑)

無論、現憲法下で、自衛隊の方々には肩身の狭い思いを味あわせる事は、「本意」では有りませんが。

> 私は貴方のことを「侵略勢力の肩を持つ」勢力として想定した事は一度もありません。その点を強く断った上で、ここで伊賀さんが提起されている論点に関して思うことは、客観的に判断して、帝国主義戦争に日本が関与している情勢であるならば、【反戦平和】と【良心的兵役拒否】は明らかに意義のある闘いでしょうし、道徳的にも正しいと主張しえるかもしれない。朝鮮戦争やベトナム戦争で「良心的兵役拒否」を貫いた人々への扱いや、9・11直後のアメリカで反戦平和を訴えた少数のアメリカ人というのも、あくまで侵略する側・攻戦する側での兵役拒否ですから、これに対して「売国奴」呼ばわりは、国家の側からありえるでしょうが、そこには兵役を拒否する事の明確な倫理的道理が存在すると言えるでしょう。しかし逆に客観的にも明らかに、日本が不当占拠された、あるいはされそうな攻撃をある外国勢力から受けるという情勢であり、国際世論も日本が侵略されているという認識で当該外国勢力への非難が生じている情勢において、果たして「国家の指揮する戦争だから」云々という議論が意味を持つのかという疑問はあります。伊賀さんの論法では、そのようなケースでも「良心的兵役拒否」や反戦平和を貫くというわけですが、侵略を受けているという情勢では、民間人も何らかの深刻な被害を被ると言うのが現代の戦争では普遍的ですから、「国家同士の戦いだから」という理屈を言ってられるのだろうか、というのはあります。(ここで想定している戦争は、あくまで日本領土内への外国勢力の侵略に対する迎撃・反撃という性質のものであり、彼らを追い出す事までを目的とするものです。自衛権の行使で許されるのはこの範囲までのものであり、攻撃は許されないというのが、現在の自衛隊でもそういう性質以上のものではないですから。)

一つだけ明確にしておきたいのは、私は確かに「国家の指揮する戦争」に否定的ですが、その「国家」自体は既に、「客観的にも明らかに、日本が不当占拠された、あるいはされそうな攻撃をある外国勢力から受けるという情勢」を、(例え理不尽なのが相手国だとしても)それまでの外交の「失敗」によって作り出していると言う事実を、あくまで私は重視しているという事です。

(韓国の前政権時の「太陽政策」を支持し、保守政権に交替してから緊張が高まっている事を私が懸念しているのも、同じ理由です)

その「責任」の所在を民主主義社会の構成員として、あいまいにしない立場に対して、【侵略を受けているという情勢では、民間人も何らかの深刻な被害を被ると言うのが現代の戦争では普遍的ですから、「国家同士の戦いだから」という理屈を言ってられるのだろうか】という論法を対峙させる事は、基本的に適切ではないと思います。

そもそも、せめて民間人に被害が及ぶ「国家」同士の戦争を、偶発的衝突や局所的紛争に「抑止力」の行使によって留めておき、特に核時代においては唯一絶対に「全面戦争」を、回避すべき事は「国家」の責任であり、ひとたび仮に「全面戦争」になってから、現にミサイル等を自国に発射してくる【相手国内】のミサイル基地(移動型も有りますから一般市民も住む「都市」にも有り得ます)を放置しておいて、「自衛権」を【あくまで日本領土内への外国勢力の侵略に対する迎撃・反撃という性質のものであり、彼らを追い出す事までを目的とするものです】という事が、それこそ果たして言ってられるか?という問題も有ります。

だからこそ、ひとたび起これば歯止めのきかない「全面戦争」というものを、(それが、どの階級や階層の担うものであれ)、それを引き起こしたという明確な失政を行なった「国家」に指揮を任す事に対して、道義的資格も認められないし信頼も置けないのです。

つまり【日本領土内への外国勢力の侵略に対する迎撃・反撃という性質のものであり、彼らを追い出す事まで】という担保など、そんな「国家」には求め様がないという意味でもあります。

「全面戦争」という状態では、「国家同士の戦いだから」という理屈を言ってられるのだろうか?…という形で責任追及の保留をする事は、逆に戦争を深化させるものです。

だからこそ繰り返しになりますが、「責任」の所在を民主主義社会の構成員として、あいまいにしない立場に対して、【侵略を受けているという情勢では、民間人も何らかの深刻な被害を被ると言うのが現代の戦争では普遍的ですから、「国家同士の戦いだから」という理屈を言ってられるのだろうか】という論法を対峙させる事は、基本的に適切ではないと思います。

> では民間人が被害を受けないために、侵略された国家はさっさと降伏して、戦闘を止めさせろ、植民地の住民になっても当面の生命の危機から逃れられるのであるからましであり、それから反植民地・独立の住民闘争を始めればよい、というのが伊賀さんの議論なのかもしれませんが、果たしてそう上手く行くのか?侵略されたときに闘わなかった国民(――民主主義国家を前提する限り、その国家の侵略勢力への降伏は、国民の選択の結果に他なりません――)が、植民地の住民になってから独立闘争を出来るのか、そんな誇りを依然として持っているのか?という疑問はあります。少なくとも降伏を受け入れた現世代の間は、植民地の住民として生きる方がましという事で、かなりの屈辱的な条件をも受け入れかねないという方が、現実ではないでしょうか?もちろん、それでも生きている方がましという判断もあり得ます。相当に追い詰められて、降伏するかさもなくば核爆弾を見舞うぞと突きつけられてしまっており、国際世論の力もこの緊急事態に対して何の効力がないと判断せざるを得ないという情勢にまで到ってしまったら、核の焦土と化すよりも植民地の屈辱を受け入れようという選択にも道理があると思えます。但し、そのような意味での降伏論は、本当に最後の手段のようなものであり、勢力均衡的な囚人のディレンマゲームをプレイしている現代の国際政治のコンテキストの下では、国家の公の見解として決して明言すべきものではないと思っています。諸外国から舐められるだけですから。かつて非武装中立論を唱えていた時代の社会党は、自衛権を主張しない降伏論だったわけですが、その種の見解を取る政党には政権を取らすべきではない、と思うわけです。

私は、一旦始めたら歯止めのきかなくなる=相手国の基地すら放置できない「全面戦争」に対して、相手国の一般市民や自国の兵士も含めた他者の「人命」を尊重し、あえて「全面戦争」を拒否するだけの【勇気】が有る国民であれば、尚更の事として「独立」や「自主」「自尊」の気概は、逆に「高い」と思えるのですが…

そして、現代という時代は、その核の焦土を避ける「最後の手段」すら要求している時代だとも…

ただ、「国家の公の見解として決して明言すべきものではない」という点に関しては、私も同意します。(そりゃそうですね)
私の「降伏論」とは、小田さんの言葉を借りれば「全面戦争」を回避できなかった時の「最後の手段」だと、思っているので、最初からジョーカーを切る様な馬鹿なマネは、すべきで無いでしょう。

しかし、明言はしなくても、別の表現として、例えば…「日本は憲法の精神に従い、国際社会の平和を求める声に連帯・依拠して自国の平和と独立を守る為に最大限の努力を行なうが、不当な侵略が行なわれた場合には、その独立と自由を守る為に大衆的・組織的な国民運動により、断固として闘う」…とでも表現すれば、あながち「舐められる」事も無いのではと…

> あるいは降伏という形で終戦するのでなく、それ以前の段階で、とにかく一刻も早く、民間人の生命を脅かす戦闘行為を止めさせ、停戦させるべく反戦平和を闘うという事であれば、意義があると思います。しかしそのような停戦は、侵略を受けている国家自体が一刻も早く結びたいでしょうし、それによって問題の解決を外交上のあるいは国際世論上の闘いに持ち込みたいでしょう。いずれにせよ、国家と住民を対立的に捉える場面ではない様に思います。

その場合にも、侵略から自衛する(と主張する)側とは云え、国家同士での「全面開戦」を引き起こした、自国の「国家」の責任にケジメを付けさせねば、「侵略的」相手国側としても、納得はしない可能性は有りますが…

例えば、イラクのフセインは、侵略的米国に対して、辞任して(民主国家なら辞任させて)でも国を守る義務は、あったと思います。

> 繰り返しますが、こちらが攻撃する性質の戦争は一般に自衛権の徒な拡大解釈であり、まあそれも細かいケースの考察に入れば色々と難しい論争になりえるのでしょうが、少なくとも現在の自衛隊の性格を見ても、それらを主権国家であるという定義上、それをもつ事を自明に意味するところの自衛権の行使の範疇とは、現在の日本国は考えていないと言ってよいと思います。そのような自衛権の拡大解釈に過ぎない段階での戦争における攻撃行為に対して、反戦平和や良心的兵役拒否は意義があると思います。伊賀さんが挙げたこうした運動の例も、功戦勢力に対して向けられていたものだったと言えます。

一旦「全面戦争」に突入したら、きっとどちら側も「自衛」を主張し始めるのは、歴史的に見ても確かなのですが、私は「全面戦争」を外交的に回避しなかった(せめて偶発的な局地紛争で留めなかった)「国家」には、どちら側だろうと、その「責任」を問い、協力を拒否する「反戦平和」「良心的兵役拒否」を貫き、同時に侵略に対しては「独立」を回復すべく闘うでしょう。

> いや、私は依然として伊賀さんの「降伏論」の本意が読めていないかもしれません。私は書かれているそれ自体のロジックを追って、それに対してコメントをしているつもりなだけですが、ロジックの背景にある本意は、明示化されない限り、よほど読み手と書き手の価値観が共有してでも居ない限り、読み取るのは難しいでしょう。今回、議論のやり取りをしてみてだんだんと解かって来た事は、たとえばひとつは近代国民国家に対する認識という点で、我々の間に必ずしも共通認識があるという訳ではない事ですね。ステイトとしての国家は、近代民主主義的国家であったとしても、共同体の疎外された(政治的)意思でありますが、しかし疎外された形態とはいえ、諸国民の集計された(政治的)意思としての性格を持っており、その点を過小評価して、あまり階級敵の道具であり敵対関係であるという観点ばかりを強調しすぎるのは一面的な見方になりかねないと私は思っております。

私は、「国家」が「階級敵の道具」だから、「国家の起す戦争」に反対した事は、これまで、一度も無いつもりです。

ワイマール体制下の「民衆」が「ナチス」を産んだ様に、毛沢東の指揮した農民・労働者の反日独立闘争が源流にある中国共産党が「チベット」を侵略した様に、どの「階級」だろうと、歴史を見ても【諸国民の集計された(政治的)意思としての性格】それ自体が「正義」に叶うとは限りません。要は「国民」の「平和的生存権」を守れなくなった(契約を反故にした)「道具」としての国家は、何れの「階級」のものだろうと、平和的な連続性が有れば有るに越したことはありませんが、いずれ「解体」と「再構築」が必要だというのが、私の国家観です。

そこに「一面的な見方」が有るというのであれば、御批判は甘受しますが、私としては「人命」を守れない(太陽政策でも何でも採用してでも全面戦争を回避できない)「国家」は(それが民主国家であれば責任は国民にも有るのですが)、目的に反する作用をする壊れた(疎外された)道具です。
(勿論、日本は「民主」国家なのですから、壊すも活かすも、国民の責任ですが)
 

(無題)

 投稿者:小田  投稿日:2010年 6月15日(火)14時25分34秒
返信・引用
  こんにちは、レスありがとうございます。

>小田さんに対し失礼を謝罪させて頂きます。

トンでもありません、謝罪するほどのことではないでしょう。文書上でのやり取りであっても誤解は良くあることです。相手の意図がだんだんと理解しあえればよいと思います。

>小田さんの解釈は、まだよく判らない部分もあるのですが、冷静に前回の小田さんの書き込みを読むと正直、場合によっては「国家」が指揮する「全面戦争」による「自衛」もあり得るとも取れるのですが、

私は大東亜戦争を想定しての自衛権は主張していません。現状での日本国憲法を前提する限り、大東亜戦争のような「全面戦争」を日本国家が行うことは出来ないわけですから。ただ、私は一概に、国家の自衛権行使の為に国民に戦争参加を指揮する権限を全面否定するわけでもありません。しかし同時に、自衛権の定義は合意が難しいという問題もありますし、日本を始め、現代の多くの欧米諸国では徴兵制は存在せず、軍隊は存在してもそれへの参加は自発制です。その場合、国家は軍隊に属する人間への戦争参加の指揮権を持ちますが、いわゆる民間人には持たないでしょう。治安維持法や国家総動員法は民間人の直接の戦争参加ではないにしても、間接的参加を意味しますが、これらが自衛権の範疇かと言うのも、本来、冷静な議論が必要でしょう。特に、情勢においては日常的には護られるべき国民の権利も制約されるというのは戦争時にはしばしば為されて来ており、それは政治哲学的にはどう評価されるべきなのか、等々、エモーショナルに人権論や平和論を掲げて攻撃するだけでなく、きちんと勉強する必要があると思っています。

>…という部分には、また【条件反射的】に、私の「降伏論」…「諸手を挙げてバンザイ」というもは冗談にせよ…とは、その様に「全面(自衛)戦争」か?、「侵略勢力の肩を持つ」か?、といった単純な2極論では無く、仮に一部の国民からは「侵略勢力の肩を持つ」勢力だと誤解を受けても、私は【反戦平和】と【良心的兵役拒否】を貫いた上で、侵略された後からでも自主・独立の闘いは、より「平和的」な手段によっても講じる事は可能な筈だと言いたいだけで、私自身に対して「侵略勢力の肩を持つ」勢力として扱うのは如何なものかと

私は貴方のことを「侵略勢力の肩を持つ」勢力として想定した事は一度もありません。その点を強く断った上で、ここで伊賀さんが提起されている論点に関して思うことは、客観的に判断して、帝国主義戦争に日本が関与している情勢であるならば、【反戦平和】と【良心的兵役拒否】は明らかに意義のある闘いでしょうし、道徳的にも正しいと主張しえるかもしれない。朝鮮戦争やベトナム戦争で「良心的兵役拒否」を貫いた人々への扱いや、9・11直後のアメリカで反戦平和を訴えた少数のアメリカ人というのも、あくまで侵略する側・攻戦する側での兵役拒否ですから、これに対して「売国奴」呼ばわりは、国家の側からありえるでしょうが、そこには兵役を拒否する事の明確な倫理的道理が存在すると言えるでしょう。しかし逆に客観的にも明らかに、日本が不当占拠された、あるいはされそうな攻撃をある外国勢力から受けるという情勢であり、国際世論も日本が侵略されているという認識で当該外国勢力への非難が生じている情勢において、果たして「国家の指揮する戦争だから」云々という議論が意味を持つのかという疑問はあります。伊賀さんの論法では、そのようなケースでも「良心的兵役拒否」や反戦平和を貫くというわけですが、侵略を受けているという情勢では、民間人も何らかの深刻な被害を被ると言うのが現代の戦争では普遍的ですから、「国家同士の戦いだから」という理屈を言ってられるのだろうか、というのはあります。(ここで想定している戦争は、あくまで日本領土内への外国勢力の侵略に対する迎撃・反撃という性質のものであり、彼らを追い出す事までを目的とするものです。自衛権の行使で許されるのはこの範囲までのものであり、攻撃は許されないというのが、現在の自衛隊でもそういう性質以上のものではないですから。)

では民間人が被害を受けないために、侵略された国家はさっさと降伏して、戦闘を止めさせろ、植民地の住民になっても当面の生命の危機から逃れられるのであるからましであり、それから反植民地・独立の住民闘争を始めればよい、というのが伊賀さんの議論なのかもしれませんが、果たしてそう上手く行くのか?侵略されたときに闘わなかった国民(――民主主義国家を前提する限り、その国家の侵略勢力への降伏は、国民の選択の結果に他なりません――)が、植民地の住民になってから独立闘争を出来るのか、そんな誇りを依然として持っているのか?という疑問はあります。少なくとも降伏を受け入れた現世代の間は、植民地の住民として生きる方がましという事で、かなりの屈辱的な条件をも受け入れかねないという方が、現実ではないでしょうか?もちろん、それでも生きている方がましという判断もあり得ます。相当に追い詰められて、降伏するかさもなくば核爆弾を見舞うぞと突きつけられてしまっており、国際世論の力もこの緊急事態に対して何の効力がないと判断せざるを得ないという情勢にまで到ってしまったら、核の焦土と化すよりも植民地の屈辱を受け入れようという選択にも道理があると思えます。但し、そのような意味での降伏論は、本当に最後の手段のようなものであり、勢力均衡的な囚人のディレンマゲームをプレイしている現代の国際政治のコンテキストの下では、国家の公の見解として決して明言すべきものではないと思っています。諸外国から舐められるだけですから。かつて非武装中立論を唱えていた時代の社会党は、自衛権を主張しない降伏論だったわけですが、その種の見解を取る政党には政権を取らすべきではない、と思うわけです。

あるいは降伏という形で終戦するのでなく、それ以前の段階で、とにかく一刻も早く、民間人の生命を脅かす戦闘行為を止めさせ、停戦させるべく反戦平和を闘うという事であれば、意義があると思います。しかしそのような停戦は、侵略を受けている国家自体が一刻も早く結びたいでしょうし、それによって問題の解決を外交上のあるいは国際世論上の闘いに持ち込みたいでしょう。いずれにせよ、国家と住民を対立的に捉える場面ではない様に思います。

繰り返しますが、こちらが攻撃する性質の戦争は一般に自衛権の徒な拡大解釈であり、まあそれも細かいケースの考察に入れば色々と難しい論争になりえるのでしょうが、少なくとも現在の自衛隊の性格を見ても、それらを主権国家であるという定義上、それをもつ事を自明に意味するところの自衛権の行使の範疇とは、現在の日本国は考えていないと言ってよいと思います。そのような自衛権の拡大解釈に過ぎない段階での戦争における攻撃行為に対して、反戦平和や良心的兵役拒否は意義があると思います。伊賀さんが挙げたこうした運動の例も、功戦勢力に対して向けられていたものだったと言えます。

>小田さんの側にも、私の「降伏論」の本意が読めなかったという意味での「誤解」は、有ったとは思います。

いや、私は依然として伊賀さんの「降伏論」の本意が読めていないかもしれません。私は書かれているそれ自体のロジックを追って、それに対してコメントをしているつもりなだけですが、ロジックの背景にある本意は、明示化されない限り、よほど読み手と書き手の価値観が共有してでも居ない限り、読み取るのは難しいでしょう。今回、議論のやり取りをしてみてだんだんと解かって来た事は、たとえばひとつは近代国民国家に対する認識という点で、我々の間に必ずしも共通認識があるという訳ではない事ですね。ステイトとしての国家は、近代民主主義的国家であったとしても、共同体の疎外された(政治的)意思でありますが、しかし疎外された形態とはいえ、諸国民の集計された(政治的)意思としての性格を持っており、その点を過小評価して、あまり階級敵の道具であり敵対関係であるという観点ばかりを強調しすぎるのは一面的な見方になりかねないと私は思っております。
 

謝罪(…と確認)

 投稿者:伊賀篤(管理人)メール  投稿日:2010年 6月12日(土)15時14分19秒
返信・引用 編集済
  こんにちは。
私の、どうやら私自身も「本来は」最も忌避する、決め付け的(レッテル張りという愚行に限りなく近い)だった「条件反射的レス」にも、冷静に対処して頂き、感謝すると同時に、失礼に過ぎた私の書きこみに反省し、小田さんに対し失礼を謝罪させて頂きます。

元はと言えば、私が十分な説明抜きに「国家」どうしの「全面戦争」ぐらいの事態に至る様であれば、彼我の軍事力の格差や、「国家」という規模が齎す被害の甚大さに鑑み、一旦は「全面戦争」を回避できなかった、自分達の「国家」を否定してでも(全面降伏を受け入れさせてでも)、新たに独立・自尊・自治を再回復すべき闘争に立ち上がるという意味での「覚悟」を伴った、一種の「降伏論」を、追記の様な形で、いいかげんに表明したのが、間違いの元でした。

更に、それに対して返して頂いた、小田さんのレスを、全面戦争を指揮する様な「国家」に対して、そのレジームを守る為に、全ての「国民」が立ち上がる事を求める様な、典型的な国家主義者であるかのごとき【決め付け】を行ない、私の頭の中にあるだけの(小田さん自身の書きこみではなく)その様な姿勢に、勝手に危険を感じてしまい、2重の意味で失礼な、一人相撲を取っていたようです。

その事は…

> 私はここまでのご見解を伺っただけで十分に満足です。私がイメージしていたのは、北ベトナムやチベット民族のような状況であり、そういう状況に立たされたときに、伊賀さんの最初の書き込みが自衛権の行使する事を放棄してという話に聞こえかねないと思えたので、賛成できないと述べました。この点でいうと、私はかつての(現在も?)日本共産党の「中立・自衛」政策が相対的に一番理想的であろうと思っています。現状では中立政策は実現が難しいと言うのはありますが・・・

…という、小田さんの書き込みで明白になりました。

尤も、日本共産党が「将来」ではなく「当面」の外交政策として、今も掲げている「武装中立」とも言える路線には、核保有国が現存し(しかも非「民主」国家=中国にも)、その廃絶の道筋は途上とは言え今だ遠く、彼我の軍事的均衡に現実的に対応した「囚人のジレンマ」下での戦略としては、採用が困難であるのを党中央が「国民」の多数とは異なって、認識していないとすれば、少し能天気という気もしますが…

> そもそも伊賀さんが自衛権の放棄を論じているわけではないという以上は、この議論を続ける意味はないと思います。

そうかもしれません。ですが…一点だけ「自衛権」という言葉は、普遍的な定義が難しく、拡大解釈する向き(大東亜戦争は自衛戦争だったという論者)から、私の様に「全面戦争」を「国民」に指揮する様な「国家」には、どちらが「先」であろうと認めずに、住民による独立闘争といった局面においてのみ認めるという、極小解釈もあるわけです。小田さんの解釈は、まだよく判らない部分もあるのですが、冷静に前回の小田さんの書き込みを読むと正直、場合によっては「国家」が指揮する「全面戦争」による「自衛」もあり得るとも取れるのですが、確かに明言はされてませんので、私の早とちりだった可能性が大であります。(まぁ、この問題は国民的にも合意が未だ形成されていないという意味で、オープン・クエスチョンなんでしょうが…)

> ウーン、「国家」を守る事が目的とは書いたつもりはないのですがね・・・。もし、平和維持に失敗した「国家」を転覆して(ないしは政権を打倒して)別のレジームを作る(別の政権を樹立する)事で問題が解決できる見込みがあるのであれば、まずはそうすべきであるとは当然、思いますよ。私の言う「覚悟」という意味は、チベット人たちの中央政府に対する屈服を拒否し続けている際に抱いているであろう「覚悟」のようなものです。自らの死をも覚悟して抵抗の意思を示す事と、不遇な状況下ででも生きるという事とは矛盾するものではないと思います

強制された「宥和」や「併合」に対して、自分達の未来は自分達で決めたいと多くの住民が抱くであろう、自主・独立を求める気持ちに、私は共感するだけでなく(場合によっては自分自身が逮捕や刑を受けても)連帯する者でありたいと思いますので、その様な意味で言う「覚悟」と、不遇を受け入れても生延びるという立場とは、確かに矛盾(根本的な対立)はしませんね。

この点も、前回私が「(あえて)極端に突き詰めてみれば、国民が最後の一人になろうとも闘う事さえ、一人一人の「国民」に求めかねない精神」というのは、勝手な私の拡大解釈だった様です。
重ねて御詫び致します。

> 目的は、ある共同体が特定の歴史的段階の下での統治機構として確立させた「ステイトとしての国家」それ自体を護衛する事ではなく、それによって護られるべき共同体の民であり、その民が築いてきた歴史であり文化であり、それらを護る事ですから、現存の「ステイトとしての国家」それ自体がその機能を果たす事に失敗したことが事態を困難にした根本であると判断され、かつ、その統治機構の打倒によって、平和の危機に関して打開の道が開かれるのであれば、その為の革命的闘争に向かう事こそが「覚悟」の対象になりましょう。

私の目的は、正確には、彼我の何れかに関わらず、善悪の相互の主張によらず、大量の人命を損なう「殺人」を奨励する様な「全面戦争」を「国民」に指揮する様な、「国民」にとっては存在意義の大部分を喪失した「国家」を降伏させる事によって【解体】する事ですから、権力階層の移動という意味での「革命」とは、少し違うかもしれませんが、もしも、その様な事態になれば、「国家権力」は一旦解体してでも(道は遠くなっても)、独立闘争で【再構築】するという様な選択肢だって、有り得るじゃないのか?…という点を主張したかったのです。

> どうも伊賀さんのここら辺の書き込みは、私に対してではなく、ある特定の保守勢力なり右派勢力のステレオタイプな見解に向って書かれているように思えてなりません。

すいません。勿論「意図的」では有りませんでしたが、私の勝手な誤解に基づくものだった様です。

> 在日米軍が米軍基地周辺で現地民の人権を蹂躙するような好き勝手をしてもそれに国民が怒りを表明せず、「米軍に護ってもらっているから仕方ない」と言っているだけの段階では、政府も米国に強く抗議しようとせず曖昧に妥協してしまい、米国にますます舐められて高飛車に出られるという構図になる事を、我々は実感としても理解できると思います。同様に、米国が日本を第51番目の州にしようと言ってきたときに、国民が「もろ手を上げて歓迎」という態度であれば、本当に51番目の州になってしまうでしょう、という程度の事を私は言っているに過ぎません。

これには、私も異論はありません。しかし…

> 同じロジックは相手が米国でなく大陸中国であっても同様に当て嵌められる、というものです。私は平和という公共財の提供に失敗した既存のステイトとしての国家を国民が批判する権利を抑制しなければならない等とは、一言も書いていません。侵略されそうな情勢で、侵略勢力に対して迎合的な態度を取る人が居れば、侵略勢力はそこからつけこもうとするでしょう。もちろん、民主国家である以上、侵略勢力の肩を持つ政治勢力の存在を原則として禁止は出来ないでしょうが、それに対してイデオロギー闘争なり政治的闘争なりを通じて勝てるようでなければ拙いだろう事は、これまでの世界史の侵略の歴史からも理解できるだろうと思います。日本の韓国併合だって、それを是とする勢力が存在して、日本側はそれにつけこんだわけですから。

…という部分には、また【条件反射的】に、私の「降伏論」…「諸手を挙げてバンザイ」というもは冗談にせよ…とは、その様に「全面(自衛)戦争」か?、「侵略勢力の肩を持つ」か?、といった単純な2極論では無く、仮に一部の国民からは「侵略勢力の肩を持つ」勢力だと誤解を受けても、私は【反戦平和】と【良心的兵役拒否】を貫いた上で、侵略された後からでも自主・独立の闘いは、より「平和的」な手段によっても講じる事は可能な筈だと言いたいだけで、私自身に対して「侵略勢力の肩を持つ」勢力として扱うのは如何なものかと、小田さんが言ってもいない事で、要らぬ予防線を張ってしまいそうになりました。(苦笑)

ただ、私の立論は、一般論から言えば、「侵略勢力の肩を持つ」勢力=売国奴と、批判や攻撃をされ得る位置にあるというのは、確かな事だろうと思うのは、同じように朝鮮戦争やベトナム戦争で「良心的兵役拒否」を貫いた人々への扱いや、9・11直後のアメリカで反戦平和を訴えた少数のアメリカ人の扱いを見ても、そうなんだろうな…とは思います。
(論点を2極対立で見るというのは、一般には判りやすく、受け入れられがちな事ですからね)

まぁ、反対に、古典的な「国際共産主義=世界同時革命」を自称する人からは、彼らにとっての侮蔑語であるところの「愛国(家)者」と明言された事はありましたが、国家は愛していなくても(参加の必要性は感じていても)、「国民」や文化・風土・地域・共同体としての「国」を(私なりに)愛しているのは事実ですから、素直に聞き流しましたが…(笑)

> 私は最後まで、伊賀さんと私といったい何が違うのかよく理解できませんでした。

今回は、私の誤解(曲解)が大部分で、非常に申し訳なかったのですが、おそらく、基本的な価値観自体には差異は(殆ど)無く、具体的な【戦術】の点で、何処までを緊急避難的な「自衛」として認めるかに、若干の多様性が有るというに過ぎないと思います。

ネットは文字のみの媒体である点で、注意深く誤解を避ける努力(相手の明言した事のみに基づく)という事に気を配るという意味での、私の未熟さに基づくものとは云え、今回は申し訳ありませんでした。

PS、また弁解がましくなりますが、基本的には、私の説明不足が原因とはいえ、私の投稿の本文でなく追記の部分に対してのみ、いきなり「私はこの見解には賛成できません」というのは、小田さんの側にも、私の「降伏論」の本意が読めなかったという意味での「誤解」は、有ったとは思います。

要らぬ誤解を避ける為にも、今後は、私は「言葉」を、もっと大切に(丁寧に)使いたいと思いました。(まだ全然…修行が足りませんね)
 

(無題)

 投稿者:小田  投稿日:2010年 6月12日(土)02時10分3秒
返信・引用
 

こんにちは、伊賀さん:

まずはレスをありがとうございます。

>
私はこの見解には賛成できません。

それ以前(PS以前)の私の見解については、賛同なのか否か?は不明ですが、小田さんのレスを拝読して、根本的な所について、御互いの意見の裏付けにある、近代国家観やら民族的アイデンティティーの問題、そこに国民が如何に参加すべきかも含めて、どの点までは一致できて、何が相違しているのか?・・・少し整理する必要を感じました。

まず、【現状認識】ですが、現在、かろうじて維持されている括弧付き「平和」という公共財を守るのが「国家」の責務であり、それを維持できる政権と外交(軍事)政策を「国家」が堅持するのかを、「国民」は自分達自身の為に【監視】し、場合によっては政権を交代させるなどをして、そういう「国家」を作る自分自身の為に負った「義務」が、民主主義国家の一員としては求められる・・・というあたり迄は、恐らく異論は無いと想像します。

そして、そして基本的な【理想】として、前回の私の記事での言葉である・・・「各民族の独立の自由を保障しつつ」・・・という表現からも、各民族のアイデンティティーや【住民】(民族混在の地域もあるので、民族そのものより、もう少し広い概念でイメージしてますが)の自決権を、私も尊重し、他の様々な価値(例えば他者の人命)との緊張関係は有るものの、諸価値の中でも基本的価値と、私も位置付けている事は、了解して頂けると思います。

具体的には、私は中国では、チベットの独立運動も、ウイグルの独立運動も支持しますし、もし日本国内で大和民族とは違う言語(文法・語彙)を持つ、アイヌや琉球民族が、歴史的に押し付けられた「宥和」ではなく、もしも(仮定ですが)、「自決」を求める様であれば認めるべきだと考えますし、更に広範には、アイデンティティーの独自性が希薄な、例えば現在の「県」や「市町村」ですら、住民の多数が「自決」を望むのであれば、それも認めるべきだとすら思っています。
(ここまで来ると、ひょっとして異論は有るかもしれませんが)

身近な問題として考えるなら、「仮に」日本が占領されたとしたら、私もチベットの人達の様に、自らとアイデンティティーを共有する人達と共に、自決権の獲得を目指して、投獄も恐れず闘う気概は、充分にあります。(もちろん、無差別テロとかでは決してなく、大衆的・平和的方法は模索するでしょうが)

ついでに(ひょっとして重要な分岐点かもしれませんが)、私はホーチミンが指導した北ベトナムによる、米国が支援していた南ベトナム傀儡政権への闘争にも、歴史的な意義は有ったと、どちらかと言えば肯定的でありますし、無関係な市民を巻き込むテロは容認できませんが、パレスチナの独立闘争にも、住民の支持を集めるだけの理由は有ると思っています。

そして、もしも、日本が他国に占領されて・・・

>
 目の前で自分の大切な家族なり友人が好き勝手に暴行されたり蹂躙されたり、虐殺されたり、という事態になりかねない状況はやはり絶対に許せません。

・・・という状況になれば、私自身の命を賭してでも(たとえ投獄や処刑される事があっても)、断固として闘い、場合によっては、その過程で「他者」の命を奪う行為に及ばないとは、私がクリスチャンであってすら、断言は出来ません。

<o:p> </o:p>

私はここまでのご見解を伺っただけで十分に満足です。私がイメージしていたのは、北ベトナムやチベット民族のような状況であり、そういう状況に立たされたときに、伊賀さんの最初の書き込みが自衛権の行使する事を放棄してという話に聞こえかねないと思えたので、賛成できないと述べました。この点でいうと、私はかつての(現在も?)日本共産党の「中立・自衛」政策が相対的に一番理想的であろうと思っています。現状では中立政策は実現が難しいと言うのはありますが・・・。

さて、それらを前提にして、ここから各論(相違点)に入りますが・・・

>
 また、そもそも日本語の公用語としての利用を禁止され、メディアがすべて、たとえば中国語だけとなれば、それは日本民族の滅亡に長期的には到り得ます。我々自身にとっても、日本語が使用不可になることは自らのアイデンティティの否定に繋がります。こういう理不尽に対しては、自身の死や当面の多大な犠牲をも覚悟して断固として抵抗の闘いを挑むというのが正しいあり方であろうと思えます

私は、小田さんの、ここの部分の論理に、違和感を感じます。

賭けられているのが、自らの家族・兄弟・子弟・同胞の目の前の【命】とかであれば、緊急避難的な意味で、私は、それらに現に脅威を及ぼしている他者の命を奪う事すら是とする立場ですが、全面戦争を回避できず、彼我の軍事力の格差で、自国の国家が解体されたら、必然的に【そういう状況】にるなかのごとき【仮定】の話にまで、私は「緊急避難」の拡大解釈を認める事はできませんし、そこまで(他国の軍隊とは云え他者の命を奪う事を肯定できる程に)、民族的アイデンティティーが重要なのか?という、諸価値の間のトレード・オフ的な緊張関係において、自分自身だけの命ならともかく、それが他者の人命よりも重要であるの?かという問題に、安易な思考停止は出来ません。そして結局は、私は恐らく「敵性言語」である中国語の勉強をしてでも、その不当性を(占領下の迫害の中でも)訴え続けるという道を選ぶだろうと思います。
<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

ここからの議論ですが、どうも私の書き込みを保守派の見解に図式的に当てはめて解釈されているのでは、という気がします。私の前回の書き込みは、伊賀さんのその前の書き込みが自衛権の放棄を是認するように読めたので、自衛権の放棄という事態が齎しうる最悪の事態を仮定的に想定し、それでも闘いを放棄するとしたら受け入れがたいという意味での「反論」をしたものです。ですから、そもそも伊賀さんが自衛権の放棄を論じているわけではないという以上は、この議論を続ける意味はないと思います。「必然的に【そういう状況】になるかのごとき」意味で仮定的な話をしたわけではありませんので。以下の私の書き込みも、誤解と思えるような点に関してコメントしているだけのものです。

そして、「平和」という公共財を守る事が出来ずに、全面戦争を起こした「国家」を守る事に対して

>
 その種の覚悟を国民一人ひとりが持つ事

という点にも、私は違和感を感じます。(あえて)極端に突き詰めてみれば、国民が最後の一人になろうとも闘う事さえ、一人一人の「国民」に求めかねない精神は、歴史的に見ても、決して唯一の(英雄的な)美徳ではなく、不遇な状況下でも「生きていてこそ」という言葉で、後世に向けて変革の芽や蓄積を残してきた人々が居てこそ、歴史が紡がれてきたという多様な視点の欠落を招きかねません。


<o:p></o:p>

ウーン、「国家」を守る事が目的とは書いたつもりはないのですがね・・・。もし、平和維持に失敗した「国家」を転覆して(ないしは政権を打倒して)別のレジームを作る(別の政権を樹立する)事で問題が解決できる見込みがあるのであれば、まずはそうすべきであるとは当然、思いますよ。私の言う「覚悟」という意味は、チベット人たちの中央政府に対する屈服を拒否し続けている際に抱いているであろう「覚悟」のようなものです。自らの死をも覚悟して抵抗の意思を示す事と、不遇な状況下ででも生きるという事とは矛盾するものではないと思います。<o:p></o:p>


> 当面の犠牲を少なくするために降伏するというのは国家百年の計を誤るの愚を犯すものであると思います。私は国民一人ひとりがそういう降伏論的な考えを持つようになるとしたら、それ自体、極めて危惧すべき事態であると思います。

何故ですか?軍事的抑止力でも何でも使ってでも「平和」を維持するという事に関して失敗し、「全面戦争」という失政を犯した「国家」というものに対し決別せず、またそれが歴史的独立闘争の始まりではなく、一旦は損なわれた「国家」の価値を普遍の価値と見なし、それを共有するアイデンティティーを持つ人が減る事は、そんなに悲観すべき事でしょうか?(私はそうは思いませんが<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

上にも書いたように、現体制を転覆して新しい体制を樹立する事で問題の打開が図れるような状況であれば、当然そうするべきですよ。目的は、ある共同体が特定の歴史的段階の下での統治機構として確立させた「ステイトとしての国家」それ自体を護衛する事ではなく、それによって護られるべき共同体の民であり、その民が築いてきた歴史であり文化であり、それらを護る事ですから、現存の「ステイトとしての国家」それ自体がその機能を果たす事に失敗したことが事態を困難にした根本であると判断され、かつ、その統治機構の打倒によって、平和の危機に関して打開の道が開かれるのであれば、その為の革命的闘争に向かう事こそが「覚悟」の対象になりましょう。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

どうも伊賀さんのここら辺の書き込みは、私に対してではなく、ある特定の保守勢力なり右派勢力のステレオタイプな見解に向って書かれているように思えてなりません。

あと、残っているのが、「国家」の義務と、「国民」の権利に関する、ジレンマとも言える問題です。それは小田さんの言う

>
理不尽な覇権的介入を未然に防ぐ礎

>
この種の降伏論では、勢力均衡論的な国際政治の囚人のディレンマゲームを合理的にプレイすべく国家のリーダーを行動させる事も出来ないと思います。

として表現された、平和を守る「国家」の義務を、国民の愛国心とも言うべき精神によって支えられなくては果たせないと責任を転嫁し、逆に言えば【反国家的】な信条を持つ事への自由という「国民」の権利を抑制しなければ、「国家」も「リーダー」も、やっていけないよという観点です。

私は、これを逆に、危険な【転倒】だと考えます。卵が先か鶏が先か?ではありませんが、この問題には自明な優先順位が厳然として有ると、私は考えるからです。 「国民」の権利(闘わない自由も含めて)が、守られてこその「国家」であり、逆では無いつまり「国民」という実存する存在が先にあってこそ、「国家」が形成される様に、平和に生きるという権利を守れなくなった時から「国家」の維持という大義の大半は無くなっているのです。 権力者は、その道義的責務として国民の命を守る義務がありますが、局地的紛争レベルを超えて、全面戦争に突入する事態を回避できなかった時点で、その任務を真っ当できなかったとして辞任するか、今度は独立闘争の先頭にでも立って、権力者としては守れなかった義務を果たそうとするべきです。
ここの部分も、私にとっては当惑させられた部分です。なぜ、「平和を守る「国家」の義務を、国民の愛国心とも言うべき精神によって支えられなくては果たせないと責任を転嫁し、逆に言えば【反国家的】な信条を持つ事への自由という「国民」の権利を抑制しなければ、「国家」も「リーダー」も、やっていけないよ」という解釈になるのか、よく理解出来ません。在日米軍が米軍基地周辺で現地民の人権を蹂躙するような好き勝手をしてもそれに国民が怒りを表明せず、「米軍に護ってもらっているから仕方ない」と言っているだけの段階では、政府も米国に強く抗議しようとせず曖昧に妥協してしまい、米国にますます舐められて高飛車に出られるという構図になる事を、我々は実感としても理解できると思います。同様に、米国が日本を第51番目の州にしようと言ってきたときに、国民が「もろ手を上げて歓迎」という態度であれば、本当に51番目の州になってしまうでしょう、という程度の事を私は言っているに過ぎません。同じロジックは相手が米国でなく大陸中国であっても同様に当て嵌められる、というものです。私は平和という公共財の提供に失敗した既存のステイトとしての国家を国民が批判する権利を抑制しなければならない等とは、一言も書いていません。侵略されそうな情勢で、侵略勢力に対して迎合的な態度を取る人が居れば、侵略勢力はそこからつけこもうとするでしょう。もちろん、民主国家である以上、侵略勢力の肩を持つ政治勢力の存在を原則として禁止は出来ないでしょうが、それに対してイデオロギー闘争なり政治的闘争なりを通じて勝てるようでなければ拙いだろう事は、これまでの世界史の侵略の歴史からも理解できるだろうと思います。日本の韓国併合だって、それを是とする勢力が存在して、日本側はそれにつけこんだわけですから。<o:p></o:p>

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ベトナムのホーチミンは、守るべき一線や順番を弁えていて、広範に国民を徴用する様なマネはしなかったと聞いています。それでも住民の多くの支持を得てきたからこそ、米国に勝てたのでしょう。そうした「手段」の正当性こそ「目的」を正当たらしめるのであって、逆に独立という崇高なる「目的」が、全面戦争(=大量殺人)を合理化する事は、決して無いでしょう。 まぁ、権力者も、合理的な行動を取る為に、好戦的もしくは厭戦的な世論によらず、独自の責任が有るのは確かですが、人民の側としては、互いに大量に殺し合うという全面戦争に、最後までNOを突き付ける事でこそ、独立という「目的」にを正当化足らしめると、私は思います。 私はこの部分に対して何も異論を持っていません。<o:p></o:p>

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まぁ、少し感情的な物言いになってしまっていたら、申し訳ありません。 小田さんと、私の、御互いの違いというものは、それこそ「平和」だから自由に意見交換できる事であって、アイデンティティーの擁護と(他者を殺さない)自由の葛藤という問題も、何処までが緊急避難として許容されるかという【一線】の引き方だけである気もします。 後から見て、少しでも建設的な議論になる事を…<o:p></o:p>

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私は最後まで、伊賀さんと私といったい何が違うのかよく理解できませんでした。<o:p></o:p>

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国家の義務と、国民の権利

 投稿者:伊賀篤(管理人)メール  投稿日:2010年 6月11日(金)22時44分47秒
返信・引用 編集済
  > No.275[元記事へ]


こんにちは。

> 私はこの見解には賛成できません。

それ以前(PS以前)の私の見解については、賛同なのか否か?は不明ですが、小田さんのレスを拝読して、根本的な所について、御互いの意見の裏付けにある、近代国家観やら民族的アイデンティティーの問題、そこに国民が如何に参加すべきかも含めて、どの点までは一致できて、何が相違しているのか?・・・少し整理する必要を感じました。

まず、【現状認識】ですが、現在、かろうじて維持されている括弧付き「平和」という公共財を守るのが「国家」の責務であり、それを維持できる政権と外交(軍事)政策を「国家」が堅持するのかを、「国民」は自分達自身の為に【監視】し、場合によっては政権を交代させるなどをして、そういう「国家」を作る自分自身の為に負った「義務」が、民主主義国家の一員としては求められる・・・というあたり迄は、恐らく異論は無いと想像します。

そして、そして基本的な【理想】として、前回の私の記事での言葉である・・・「各民族の独立の自由を保障しつつ」・・・という表現からも、各民族のアイデンティティーや【住民】(民族混在の地域もあるので、民族そのものより、もう少し広い概念でイメージしてますが)の自決権を、私も尊重し、他の様々な価値(例えば他者の人命)との緊張関係は有るものの、諸価値の中でも基本的価値と、私も位置付けている事は、了解して頂けると思います。

具体的には、私は中国では、チベットの独立運動も、ウイグルの独立運動も支持しますし、もし日本国内で大和民族とは違う言語(文法・語彙)を持つ、アイヌや琉球民族が、歴史的に押し付けられた「宥和」ではなく、もしも(仮定ですが)、「自決」を求める様であれば認めるべきだと考えますし、更に広範には、アイデンティティーの独自性が希薄な、例えば現在の「県」や「市町村」ですら、住民の多数が「自決」を望むのであれば、それも認めるべきだとすら思っています。
(ここまで来ると、ひょっとして異論は有るかもしれませんが)

身近な問題として考えるなら、「仮に」日本が占領されたとしたら、私もチベットの人達の様に、自らとアイデンティティーを共有する人達と共に、自決権の獲得を目指して、投獄も恐れず闘う気概は、充分にあります。(もちろん、無差別テロとかでは決してなく、大衆的・平和的方法は模索するでしょうが)

ついでに(ひょっとして重要な分岐点かもしれませんが)、私はホーチミンが指導した北ベトナムによる、米国が支援していた南ベトナム傀儡政権への闘争にも、歴史的な意義は有ったと、どちらかと言えば肯定的でありますし、無関係な市民を巻き込むテロは容認できませんが、パレスチナの独立闘争にも、住民の支持を集めるだけの理由は有ると思っています。

そして、もしも、日本が他国に占領されて・・・

> 目の前で自分の大切な家族なり友人が好き勝手に暴行されたり蹂躙されたり、虐殺されたり、という事態になりかねない状況はやはり絶対に許せません。

・・・という状況になれば、私自身の命を賭してでも(たとえ投獄や処刑される事があっても)、断固として闘い、場合によっては、その過程で「他者」の命を奪う行為に及ばないとは、私がクリスチャンであってすら、断言は出来ません。

さて、それらを前提にして、ここから各論(相違点)に入りますが・・・

>  また、そもそも日本語の公用語としての利用を禁止され、メディアがすべて、たとえば中国語だけとなれば、それは日本民族の滅亡に長期的には到り得ます。我々自身にとっても、日本語が使用不可になることは自らのアイデンティティの否定に繋がります。こういう理不尽に対しては、自身の死や当面の多大な犠牲をも覚悟して断固として抵抗の闘いを挑むというのが正しいあり方であろうと思えます

私は、小田さんの、ここの部分の論理に、違和感を感じます。

賭けられているのが、自らの家族・兄弟・子弟・同胞の目の前の【命】とかであれば、緊急避難的な意味で、私は、それらに現に脅威を及ぼしている他者の命を奪う事すら是とする立場ですが、全面戦争を回避できず、彼我の軍事力の格差で、自国の国家が解体されたら、必然的に【そういう状況】にるなかのごとき【仮定】の話にまで、私は「緊急避難」の拡大解釈を認める事はできませんし、そこまで(他国の軍隊とは云え他者の命を奪う事を肯定できる程に)、民族的アイデンティティーが重要なのか?という、諸価値の間のトレード・オフ的な緊張関係において、自分自身だけの命ならともかく、それが他者の人命よりも重要であるの?かという問題に、安易な思考停止は出来ません。そして結局は、私は恐らく「敵性言語」である中国語の勉強をしてでも、その不当性を(占領下の迫害の中でも)訴え続けるという道を選ぶだろうと思います。

そして、「平和」という公共財を守る事が出来ずに、全面戦争を起こした「国家」を守る事に対して…

> その種の覚悟を国民一人ひとりが持つ事

…という点にも、私は違和感を感じます。(あえて)極端に突き詰めてみれば、国民が最後の一人になろうとも闘う事さえ、一人一人の「国民」に求めかねない精神は、歴史的に見ても、決して唯一の(英雄的な)美徳ではなく、不遇な状況下でも「生きていてこそ」という言葉で、後世に向けて変革の芽や蓄積を残してきた人々が居てこそ、歴史が紡がれてきたという多様な視点の欠落を招きかねません。

> 当面の犠牲を少なくするために降伏するというのは国家百年の計を誤るの愚を犯すものであると思います。私は国民一人ひとりがそういう降伏論的な考えを持つようになるとしたら、それ自体、極めて危惧すべき事態であると思います。

何故ですか?…軍事的抑止力でも何でも使ってでも「平和」を維持するという事に関して失敗し、「全面戦争」という失政を犯した「国家」というものに対し決別せず、またそれが歴史的独立闘争の始まりではなく、一旦は損なわれた「国家」の価値を普遍の価値と見なし、それを共有するアイデンティティーを持つ人が減る事は、そんなに悲観すべき事でしょうか?(私はそうは思いませんが…)

あと、残っているのが、「国家」の義務と、「国民」の権利に関する、ジレンマとも言える問題です。それは小田さんの言う…

> 理不尽な覇権的介入を未然に防ぐ礎

> この種の降伏論では、勢力均衡論的な国際政治の囚人のディレンマゲームを合理的にプレイすべく国家のリーダーを行動させる事も出来ないと思います。

…として表現された、平和を守る「国家」の義務を、国民の愛国心とも言うべき精神によって支えられなくては果たせないと責任を転嫁し、逆に言えば【反国家的】な信条を持つ事への自由という「国民」の権利を抑制しなければ、「国家」も「リーダー」も、やっていけないよという観点です。

私は、これを逆に、危険な【転倒】だと考えます。卵が先か鶏が先か?ではありませんが、この問題には自明な優先順位が厳然として有ると、私は考えるからです。

「国民」の権利(闘わない自由も含めて)が、守られてこその「国家」であり、逆では無い…つまり「国民」という実存する存在が先にあってこそ、「国家」が形成される様に、平和に生きるという権利を守れなくなった時から「国家」の維持という大義の大半は無くなっているのです。

権力者は、その道義的責務として国民の命を守る義務がありますが、局地的紛争レベルを超えて、全面戦争に突入する事態を回避できなかった時点で、その任務を真っ当できなかったとして辞任するか、今度は独立闘争の先頭にでも立って、権力者としては守れなかった義務を果たそうとするべきです。

ベトナムのホーチミンは、守るべき一線や順番を弁えていて、広範に国民を徴用する様なマネはしなかったと聞いています。それでも住民の多くの支持を得てきたからこそ、米国に勝てたのでしょう。そうした「手段」の正当性こそ「目的」を正当たらしめるのであって、逆に独立という崇高なる「目的」が、全面戦争(=大量殺人)を合理化する事は、決して無いでしょう。

まぁ、権力者も、合理的な行動を取る為に、好戦的もしくは厭戦的な世論によらず、独自の責任が有るのは確かですが、人民の側としては、互いに大量に殺し合うという全面戦争に、最後までNOを突き付ける事でこそ、独立という「目的」にを正当化足らしめると、私は思います。

まぁ、少し感情的な物言いになってしまっていたら、申し訳ありません。

小田さんと、私の、御互いの違いというものは、それこそ「平和」だから自由に意見交換できる事であって、アイデンティティーの擁護と(他者を殺さない)自由の葛藤という問題も、何処までが緊急避難として許容されるかという【一線】の引き方だけである気もします。

後から見て、少しでも建設的な議論になる事を…

 

(無題)

 投稿者:小田  投稿日:2010年 6月11日(金)05時08分43秒
返信・引用
  こんにちは:

>PS、ただ私は権力者では無いので、もし日本が植民地にされたら?という問題に深刻になる必用は無いと考えてもいます。軍事力の真価は抑止力にこそあるので、もし全面戦争になるぐらいであれば、極端に言えば、相手が人民抑圧国家であってすら、全面降伏=諸手を挙げて歓迎?する方が、まだマシだと考えています。

私はこの見解には賛成できません。目の前で自分の大切な家族なり友人が好き勝手に暴行されたり蹂躙されたり、虐殺されたり、という事態になりかねない状況はやはり絶対に許せません。戦後、米国に占領統治されたときは、ある意味幸いにして、戦後の冷戦体制の構造下で日本は共産化の防波堤となるべく、民主国家として経済復興させる方針での統治ですみました。しかし、たとえば、大陸中国に今後占領統治されるような事態に仮になったとしたら、現実には大陸中国にとっての日本の存在意義に依存してくる事ですが、チベット民族のような扱いにならないという保証はありません。また、そもそも日本語の公用語としての利用を禁止され、メディアがすべて、たとえば中国語だけとなれば、それは日本民族の滅亡に長期的には到り得ます。我々自身にとっても、日本語が使用不可になることは自らのアイデンティティの否定に繋がります。こういう理不尽に対しては、自身の死や当面の多大な犠牲をも覚悟して断固として抵抗の闘いを挑むというのが正しいあり方であろうと思えますし、その種の覚悟を国民一人ひとりが持つ事が、理不尽な覇権的介入を未然に防ぐ礎にも繋がっていくと思います。ではいざというときに本当に逃げ出さずに抵抗できるかという問いに対して、個人的には必ずしも自信を持って答えられるわけではありませんが、しかし、そういう風に振舞えるようにありたいとは思います。当面の犠牲を少なくするために降伏するというのは国家百年の計を誤るの愚を犯すものであると思います。私は国民一人ひとりがそういう降伏論的な考えを持つようになるとしたら、それ自体、極めて危惧すべき事態であると思います。また、この種の降伏論では、勢力均衡論的な国際政治の囚人のディレンマゲームを合理的にプレイすべく国家のリーダーを行動させる事も出来ないと思います。
 

Re: 普天間基地問題を巡っての鳩山総理の辞任について

 投稿者:伊賀篤(管理人)メール  投稿日:2010年 6月 8日(火)19時07分10秒
返信・引用 編集済
  こんにちは。(私の振った話題での記事ありがろうございます)

確かに、各主権国家が、軍事費という重しから解放されても、真の「国際平和」という公共財を受益できるのが、仮に最善の利得だとすれば、非協力ゲームにおける均衡解である軍事的均衡(軍事同盟等による)によって保たれる「国際平和」という公共財の受益というのは、非協力ゲームにおける「囚人のディレンマ」そのものですね。

しかしそれでも、仰る通り「国際政治がホッブス的「万人の万人に対する闘争」的野蛮的状況に陥る」事に比べれば、利得が高いのは確かなので、私も、当面における【抑止力】としての軍事力の存在と、それが自国一国で為し得ない場合の軍事同盟の存在に、当面(数百年の期間を要するかもしれませんが)の期間において、否定的では【ない】どころか、条件付ながらも肯定的であります。(条件付というのは「抑止力」としてという条件で、実際に軍事力が全面的に行使されないならば・・・という点ですが)

まぁ、私の所属する日本共産党は、軍事同盟には否定的な態度を崩してないながらも、自衛隊の一定(?)期間の存続という立場ですし(そうなると抑止力の為に逆に自衛隊を増強しなければならない気もするが?・・・苦笑)、また辞任した鳩山元総理も、本来の彼の持論は(総理になった時に封印したと述べていましたが)、米軍の日本駐留の無い日米安保と東アジア共同体構想で有ったので、どちらも、当面の安全保障という観点から見れば、国民から見て・・・恐らく「理想論」というか、当面の現実に対処するには、今一つ信を置けないものであり、鳩山元総理の今回の迷走は、そこらへんの現実と理想の間を埋める具体的な指針なり計画的なプロセスの不在にあったのでしょう。

では、歴史的・文化的にも共通する点の多い「東アジア共同体」というのが、何故EUの様には実現不可能なのか?、その点を考えてみると、歴史的問題や、経済的な格差もありますが、政治的自由・民主主義という価値観で共有できない国(もちろん中国ですが)が、桁違いの大国として存在している点が大きいと思うのです。

そう言うと、米国だって「政治的自由・民主主義」の国でありながら、古くはベトナム戦争や、イラク戦争を起こしているじゃないか!・・・と(私より党に忠実な党員とかから)反論されそうですが、米国では、戦争という最悪の選択をするたびに、国内では(後からであれ)在野の勢力を中心に反戦運動が起こり、現にベトナム戦争では敗北を受け入れ、イラクからも政権交替後に撤退しようとしています。もしも国民意識や制度において、リアルタイムで政策に反映できる状況が産まれたとすれば、戦争を国際間の在野勢力の連帯により「事前に」回避できる可能性も生じるかもしれないという僅かな【期待】(=これについては昔JCPWで議論した事もありましたね)も、ひょっとして持てるかもしれませんが、これは当該国の御互いで「政治的自由・民主主義」が健全に機能している事が前提であり、残念ながら中国はそうでは有りません。

また、問題の後景には、(私には)国内・国家間における「格差」の問題が有る様な気がしてなりません。古くから政治家達が国民の不満を「外」にそらす「手段」としての戦争という問題です。(米国が交戦的なのも中国が覇権的なのも、伝統や歴史もあるでしょうが、ひょっとしてコレが問題の根幹には有ったりするのかも?)

> 今後の左翼は、長期的には現状の国際政治における囚人のディレンマ的ゲーム構造の変革への動機と展望を常に考慮しつつも、他方で、現状の近代主権国家体制の前提の下で成立している国際政治のゲームのルールの下で、主権国家として徒に日本の「安全と平和」の保障なり国際政治における日本の立場なりに損害を与えるような事がないように、賢く戦略的にゲームをプレイする事も考えていかなければならないだろう

その通りですね。超長期的(千年?)には「囚人のディレンマ的ゲーム構造の変革」には、世界国家(←私はコレには懐疑的やら、各民族の独立の自由を保障しつつ、全ての主権国家から「軍事力」を奪い、国連などの国際機関にのみ軍事権を委譲するとか・・・色々考えられるでしょうが、短中期的には、現状の均衡を維持し、決して「国際平和」という国際公共財を損なわない担保を保障しつつも、【左派独自】の現状に比べて「よりまし」な改善に向けた、外交政策・軍事指針というものを、綱領化・具体化していく事が求められるでしょう。

尤も、私が挙げた2つの論点(互いの国内における政治的民主主義による連帯の可能性やら、国際的・国内的な格差の是正)という、よりましを可能にする条件ですら、百年単位の時間を要するかもしれず(特に中国)、ことに外から他国の政治的な変革を支援するというのは、逆に国際社会では内政干渉として「不信」の種になりかねません。

その条件は、それ自体としても困難な問題であり、特に前者は、最終的には当該国の内部に住む人民自身が、草の根からの支持を集める政治的な積み重ねの過程が必須でしょう。

ただ、それに向けた、文化的な交流も含めた外交の積み重ねというのは可能な筈であり、後者(格差の存在)についても、是正する為の理論的な探求から始まって具体的な行動に至るまで、かろうじて現存する「国際平和」という公共財が維持される限りにおいて、努力は出来る筈です。

私の住む浜松には外国人も多いのですが、経済では海外との交易だけでなく人的な交流と相互依存は、今後ますます進むと思われ、東アジアの民主主義国家の左派が置かれた困難は、永続するものとは限りません。(韓国の前左派政権における「太陽政策」は、私は個人的に、今でも基本的に間違ってなかったと思うのですが・・・日本では理解が進みませんね・・・)

まぁ、戦略を練る事も重要ですが、草の根では、まだまだ「国際平和」という公共財の決定的とも言える重要性の認識へのウェイトが、戦後の一頃程には高いとは言えなくなっているという危惧もあり、微力で有れ、個人でも努力できる(すべき)事というのは、山積していると思うのです。

大事なのは、この問題でも、継続というものだと思った次第です。

PS、ただ私は権力者では無いので、もし日本が植民地にされたら?という問題に深刻になる必用は無いと考えてもいます。軍事力の真価は抑止力にこそあるので、もし全面戦争になるぐらいであれば、極端に言えば、相手が人民抑圧国家であってすら、全面降伏=諸手を挙げて歓迎?する方が、まだマシだと考えています。国家とは、内部から変革を進める方が、より少ない犠牲で済むだろうと思っているからです・・・
 

普天間基地問題を巡っての鳩山総理の辞任について

 投稿者:小田  投稿日:2010年 6月 8日(火)17時51分43秒
返信・引用 編集済
  (この投稿は、小田さん本人の了解を得て、私のブログでの記事【2010/6/4「安全保障問題が左派政権の足を引っ張る東アジア情勢」】へのレスポンスとして書かれた文章を、私=伊賀篤=管理人が、転載したものです)

普天間基地問題を巡っての鳩山総理の辞任について  2010年06月05日17:59

在日米軍は、仮に日本が本当に侵略されたらどこまで本気で防衛上の努力をしてくれるかという事に関して、疑わしいと皆が思っている事が明らかになってきても、そして、在日米軍が対イラク、対イラン用の戦略基地として実際には機能しているとは言え、だからと言って、米国との軍事同盟的関係の存在が無意味だという訳でもない。残念ながら現状の国際政治環境は、勢力均衡を成立させるゲームによって「平和」という国際公共財(それは同時に近隣諸国への「脅威の供給」と裏腹なものでもあるが)が供給されていると、互いに了解しあっている。それは一種の「囚人のディレンマ的ゲーム」の下での非協力均衡としての「平和の実現」という了解である。その場合、一国だけ一方的に軍事力を削減するというタイプの「協力行動」はその国にとっての一方的損のみであると了解されている。また、近代国民国家体制の下での主権国家である限り、主権国家の定義上、「平和と安全」の維持はもっとも最優先すべき国家の義務と了解されている事もあり、その問題でしくじると、国家の首長としての信頼性にひびが入らざるを得ない。普天間の件はやはり甘い見通しで空手形を発行したと言わざるを得ないだろう。もちろん、普天間の件での鳩山の公約は、実現され得るのであればそれが一番望ましいのは当然であり、また、日米安保無しにしてやっていくのが一番望ましいのも明らかである。しかし他方で、それらが現状の国際政治における囚人のディレンマ的ゲーム構造そのものを変える事無しには、難しいという現状への認識がある以上は、安易な空手形は却って沖縄住民に対しても米国に対しても、日本国家の権威なり信頼性を失墜させたという点で最悪であったと言わざるを得ない。

現状の極東アジア諸国にとって、日本も含めて、中国が脅威的存在であると言うのは現実的な問題であると思うし、世界市場の起動力としての現在及び将来の地位もあってかなり強い立場になっているという状況の下では、あまりぼんやりとした軍事・外交上の政策を取り続けていると、気がつくと植民地にされているなどという事も全くありえない話ではないくらいに思っておいた方が良い様にも思う。実際、米国と違って、中国は地理的に近隣国であり、それだけに海洋資源や環境問題等、多くの点で直接的な利害が関る事がより多いし、米国は戦後のパクス・アメリカーナの下で世界に対して覇権主義を行使してきたと同時に、曲がりなりにも世界に対する国際公共財を供給する立場にある事をいわば自覚的に引き受けてきたというそれなりの「信用」がある(ブッシュのイラク戦争はその「信用」をすっかり失墜させてしまったとは言え・・・)。中国に国際公共財を主導的に供給する立場を引き受ける自覚があるのかに関して、現状では信頼するに足る裏づけが存在しないのが問題であると思われる。

他方、鳩山も、最終的には日米同盟を沖縄の基地住民の切望よりも優先せざるを得ないという政策に到らざるを得ないとしても、もっと工夫の余地があっただろう。なぜ基地住民があれほど、米軍基地に拒絶反応を示すのか、そうなるに到った歴史的背景を考慮して、基地の軍人達がこれまでのようなハラスメントを沖縄の住民に対して冒し続ける可能性を失くする様な仕組みを考案して、米国側に飲ませるくらいの交渉を発揮しても良いのではないか。在日米軍の沖縄住人への人権侵害的行為も一種の日本の国家主権の蹂躙に他ならないわけであるので、やはり外交上の戦略としてももっと基地住民の人権侵害などの事項に対して本気で怒って見せなければならない筈であるし、それによって何らかの譲歩を引き出すくらいの心積もりでいるべきだと思う。日米同盟を解体する意思はお互いにないと了解しあっている下であっても、相手の高飛車に対してはもっと強く出る事によって、彼等のそういった振る舞いを自ずから戒める方向に持っていくという可能性を探るだけでも、状態はかなり改善されると思う。そしてそういう可能性を探るのは主権国家としての日本の国家元首たちの、国内外に対して果たすべき義務に他ならないだろう。

今後の左翼は、長期的には現状の国際政治における囚人のディレンマ的ゲーム構造の変革への動機と展望を常に考慮しつつも、他方で、現状の近代主権国家体制の前提の下で成立している国際政治のゲームのルールの下で、主権国家として徒に日本の「安全と平和」の保障なり国際政治における日本の立場なりに損害を与えるような事がないように、賢く戦略的にゲームをプレイする事も考えていかなければならないだろう。そうした志向抜きには、主権国家の元首的立場を委ねる気には国民はならないだろう。囚人のディレンマ的ゲーム構造がベストな国際政治体制ではない事は明らかであり、その変革を展望すべきなのは明らかであったとしても、他方で現状の囚人のディレンマ的国際政治の構造は、決してホッブス的「万人の万人に対する闘争」的無政府的状況ではない。囚人のディレンマ・ゲームの非協力均衡解の下で、それなりに「国際平和」という国際公共財は、決して最適水準ではないとは言え、供給されているのである。その状態からの逸脱によって、徒に自分達の首を絞めるような愚かな事はしてはならないであろうし、ゲームの構造の変革も、それが頓挫する事によって却って、国際政治がホッブス的「万人の万人に対する闘争」的野蛮的状況に陥る、という確率が高いと見込まれる場合には、変革そのものを当面は見送るという戦略も当然ながら考慮していくべきなのである。
 

おお妹よ

 投稿者:伊賀篤(管理人)メール  投稿日:2010年 5月10日(月)13時31分19秒
返信・引用
  返事がおそくなってゴメン

最近、インターネットから離れていて・・・

そちらこそ事故とかには気をつけて
 

返事して。

 投稿者:やすこメール  投稿日:2010年 4月10日(土)19時47分8秒
返信・引用 編集済
  インター
ネット難しいね。
 

お大事に

 投稿者:やすこメール  投稿日:2010年 4月10日(土)19時44分10秒
返信・引用
  私は元気です。兄上も元気で。  

お大事に

 投稿者:やすこメール  投稿日:2010年 4月10日(土)14時17分31秒
返信・引用
  康子は元気*
お兄ちゃん 事故気をつけてね……
 

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