こんにちは、伊賀さん:
まずはレスをありがとうございます。
> 私はこの見解には賛成できません。
それ以前(PS以前)の私の見解については、賛同なのか否か?は不明ですが、小田さんのレスを拝読して、根本的な所について、御互いの意見の裏付けにある、近代国家観やら民族的アイデンティティーの問題、そこに国民が如何に参加すべきかも含めて、どの点までは一致できて、何が相違しているのか?・・・少し整理する必要を感じました。
まず、【現状認識】ですが、現在、かろうじて維持されている括弧付き「平和」という公共財を守るのが「国家」の責務であり、それを維持できる政権と外交(軍事)政策を「国家」が堅持するのかを、「国民」は自分達自身の為に【監視】し、場合によっては政権を交代させるなどをして、そういう「国家」を作る自分自身の為に負った「義務」が、民主主義国家の一員としては求められる・・・というあたり迄は、恐らく異論は無いと想像します。
そして、そして基本的な【理想】として、前回の私の記事での言葉である・・・「各民族の独立の自由を保障しつつ」・・・という表現からも、各民族のアイデンティティーや【住民】(民族混在の地域もあるので、民族そのものより、もう少し広い概念でイメージしてますが)の自決権を、私も尊重し、他の様々な価値(例えば他者の人命)との緊張関係は有るものの、諸価値の中でも基本的価値と、私も位置付けている事は、了解して頂けると思います。
具体的には、私は中国では、チベットの独立運動も、ウイグルの独立運動も支持しますし、もし日本国内で大和民族とは違う言語(文法・語彙)を持つ、アイヌや琉球民族が、歴史的に押し付けられた「宥和」ではなく、もしも(仮定ですが)、「自決」を求める様であれば認めるべきだと考えますし、更に広範には、アイデンティティーの独自性が希薄な、例えば現在の「県」や「市町村」ですら、住民の多数が「自決」を望むのであれば、それも認めるべきだとすら思っています。
(ここまで来ると、ひょっとして異論は有るかもしれませんが)
身近な問題として考えるなら、「仮に」日本が占領されたとしたら、私もチベットの人達の様に、自らとアイデンティティーを共有する人達と共に、自決権の獲得を目指して、投獄も恐れず闘う気概は、充分にあります。(もちろん、無差別テロとかでは決してなく、大衆的・平和的方法は模索するでしょうが)
ついでに(ひょっとして重要な分岐点かもしれませんが)、私はホーチミンが指導した北ベトナムによる、米国が支援していた南ベトナム傀儡政権への闘争にも、歴史的な意義は有ったと、どちらかと言えば肯定的でありますし、無関係な市民を巻き込むテロは容認できませんが、パレスチナの独立闘争にも、住民の支持を集めるだけの理由は有ると思っています。
そして、もしも、日本が他国に占領されて・・・
> 目の前で自分の大切な家族なり友人が好き勝手に暴行されたり蹂躙されたり、虐殺されたり、という事態になりかねない状況はやはり絶対に許せません。
・・・という状況になれば、私自身の命を賭してでも(たとえ投獄や処刑される事があっても)、断固として闘い、場合によっては、その過程で「他者」の命を奪う行為に及ばないとは、私がクリスチャンであってすら、断言は出来ません。
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私はここまでのご見解を伺っただけで十分に満足です。私がイメージしていたのは、北ベトナムやチベット民族のような状況であり、そういう状況に立たされたときに、伊賀さんの最初の書き込みが自衛権の行使する事を放棄してという話に聞こえかねないと思えたので、賛成できないと述べました。この点でいうと、私はかつての(現在も?)日本共産党の「中立・自衛」政策が相対的に一番理想的であろうと思っています。現状では中立政策は実現が難しいと言うのはありますが・・・。
さて、それらを前提にして、ここから各論(相違点)に入りますが・・・
> また、そもそも日本語の公用語としての利用を禁止され、メディアがすべて、たとえば中国語だけとなれば、それは日本民族の滅亡に長期的には到り得ます。我々自身にとっても、日本語が使用不可になることは自らのアイデンティティの否定に繋がります。こういう理不尽に対しては、自身の死や当面の多大な犠牲をも覚悟して断固として抵抗の闘いを挑むというのが正しいあり方であろうと思えます
私は、小田さんの、ここの部分の論理に、違和感を感じます。
賭けられているのが、自らの家族・兄弟・子弟・同胞の目の前の【命】とかであれば、緊急避難的な意味で、私は、それらに現に脅威を及ぼしている他者の命を奪う事すら是とする立場ですが、全面戦争を回避できず、彼我の軍事力の格差で、自国の国家が解体されたら、必然的に【そういう状況】にるなかのごとき【仮定】の話にまで、私は「緊急避難」の拡大解釈を認める事はできませんし、そこまで(他国の軍隊とは云え他者の命を奪う事を肯定できる程に)、民族的アイデンティティーが重要なのか?という、諸価値の間のトレード・オフ的な緊張関係において、自分自身だけの命ならともかく、それが他者の人命よりも重要であるの?かという問題に、安易な思考停止は出来ません。そして結局は、私は恐らく「敵性言語」である中国語の勉強をしてでも、その不当性を(占領下の迫害の中でも)訴え続けるという道を選ぶだろうと思います。<o:p></o:p>
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ここからの議論ですが、どうも私の書き込みを保守派の見解に図式的に当てはめて解釈されているのでは、という気がします。私の前回の書き込みは、伊賀さんのその前の書き込みが自衛権の放棄を是認するように読めたので、自衛権の放棄という事態が齎しうる最悪の事態を仮定的に想定し、それでも闘いを放棄するとしたら受け入れがたいという意味での「反論」をしたものです。ですから、そもそも伊賀さんが自衛権の放棄を論じているわけではないという以上は、この議論を続ける意味はないと思います。「必然的に【そういう状況】になるかのごとき」意味で仮定的な話をしたわけではありませんので。以下の私の書き込みも、誤解と思えるような点に関してコメントしているだけのものです。
そして、「平和」という公共財を守る事が出来ずに、全面戦争を起こした「国家」を守る事に対して…
> その種の覚悟を国民一人ひとりが持つ事
…という点にも、私は違和感を感じます。(あえて)極端に突き詰めてみれば、国民が最後の一人になろうとも闘う事さえ、一人一人の「国民」に求めかねない精神は、歴史的に見ても、決して唯一の(英雄的な)美徳ではなく、不遇な状況下でも「生きていてこそ」という言葉で、後世に向けて変革の芽や蓄積を残してきた人々が居てこそ、歴史が紡がれてきたという多様な視点の欠落を招きかねません。
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ウーン、「国家」を守る事が目的とは書いたつもりはないのですがね・・・。もし、平和維持に失敗した「国家」を転覆して(ないしは政権を打倒して)別のレジームを作る(別の政権を樹立する)事で問題が解決できる見込みがあるのであれば、まずはそうすべきであるとは当然、思いますよ。私の言う「覚悟」という意味は、チベット人たちの中央政府に対する屈服を拒否し続けている際に抱いているであろう「覚悟」のようなものです。自らの死をも覚悟して抵抗の意思を示す事と、不遇な状況下ででも生きるという事とは矛盾するものではないと思います。<o:p></o:p>
> 当面の犠牲を少なくするために降伏するというのは国家百年の計を誤るの愚を犯すものであると思います。私は国民一人ひとりがそういう降伏論的な考えを持つようになるとしたら、それ自体、極めて危惧すべき事態であると思います。
何故ですか?…軍事的抑止力でも何でも使ってでも「平和」を維持するという事に関して失敗し、「全面戦争」という失政を犯した「国家」というものに対し決別せず、またそれが歴史的独立闘争の始まりではなく、一旦は損なわれた「国家」の価値を普遍の価値と見なし、それを共有するアイデンティティーを持つ人が減る事は、そんなに悲観すべき事でしょうか?(私はそうは思いませんが…)<o:p></o:p>
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上にも書いたように、現体制を転覆して新しい体制を樹立する事で問題の打開が図れるような状況であれば、当然そうするべきですよ。目的は、ある共同体が特定の歴史的段階の下での統治機構として確立させた「ステイトとしての国家」それ自体を護衛する事ではなく、それによって護られるべき共同体の民であり、その民が築いてきた歴史であり文化であり、それらを護る事ですから、現存の「ステイトとしての国家」それ自体がその機能を果たす事に失敗したことが事態を困難にした根本であると判断され、かつ、その統治機構の打倒によって、平和の危機に関して打開の道が開かれるのであれば、その為の革命的闘争に向かう事こそが「覚悟」の対象になりましょう。<o:p></o:p>
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どうも伊賀さんのここら辺の書き込みは、私に対してではなく、ある特定の保守勢力なり右派勢力のステレオタイプな見解に向って書かれているように思えてなりません。
あと、残っているのが、「国家」の義務と、「国民」の権利に関する、ジレンマとも言える問題です。それは小田さんの言う…
> 理不尽な覇権的介入を未然に防ぐ礎
> この種の降伏論では、勢力均衡論的な国際政治の囚人のディレンマゲームを合理的にプレイすべく国家のリーダーを行動させる事も出来ないと思います。
…として表現された、平和を守る「国家」の義務を、国民の愛国心とも言うべき精神によって支えられなくては果たせないと責任を転嫁し、逆に言えば【反国家的】な信条を持つ事への自由という「国民」の権利を抑制しなければ、「国家」も「リーダー」も、やっていけないよという観点です。
私は、これを逆に、危険な【転倒】だと考えます。卵が先か鶏が先か?ではありませんが、この問題には自明な優先順位が厳然として有ると、私は考えるからです。
「国民」の権利(闘わない自由も含めて)が、守られてこその「国家」であり、逆では無い…つまり「国民」という実存する存在が先にあってこそ、「国家」が形成される様に、平和に生きるという権利を守れなくなった時から「国家」の維持という大義の大半は無くなっているのです。
権力者は、その道義的責務として国民の命を守る義務がありますが、局地的紛争レベルを超えて、全面戦争に突入する事態を回避できなかった時点で、その任務を真っ当できなかったとして辞任するか、今度は独立闘争の先頭にでも立って、権力者としては守れなかった義務を果たそうとするべきです。
ここの部分も、私にとっては当惑させられた部分です。なぜ、「平和を守る「国家」の義務を、国民の愛国心とも言うべき精神によって支えられなくては果たせないと責任を転嫁し、逆に言えば【反国家的】な信条を持つ事への自由という「国民」の権利を抑制しなければ、「国家」も「リーダー」も、やっていけないよ」という解釈になるのか、よく理解出来ません。在日米軍が米軍基地周辺で現地民の人権を蹂躙するような好き勝手をしてもそれに国民が怒りを表明せず、「米軍に護ってもらっているから仕方ない」と言っているだけの段階では、政府も米国に強く抗議しようとせず曖昧に妥協してしまい、米国にますます舐められて高飛車に出られるという構図になる事を、我々は実感としても理解できると思います。同様に、米国が日本を第51番目の州にしようと言ってきたときに、国民が「もろ手を上げて歓迎」という態度であれば、本当に51番目の州になってしまうでしょう、という程度の事を私は言っているに過ぎません。同じロジックは相手が米国でなく大陸中国であっても同様に当て嵌められる、というものです。私は平和という公共財の提供に失敗した既存のステイトとしての国家を国民が批判する権利を抑制しなければならない等とは、一言も書いていません。侵略されそうな情勢で、侵略勢力に対して迎合的な態度を取る人が居れば、侵略勢力はそこからつけこもうとするでしょう。もちろん、民主国家である以上、侵略勢力の肩を持つ政治勢力の存在を原則として禁止は出来ないでしょうが、それに対してイデオロギー闘争なり政治的闘争なりを通じて勝てるようでなければ拙いだろう事は、これまでの世界史の侵略の歴史からも理解できるだろうと思います。日本の韓国併合だって、それを是とする勢力が存在して、日本側はそれにつけこんだわけですから。<o:p></o:p>
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ベトナムのホーチミンは、守るべき一線や順番を弁えていて、広範に国民を徴用する様なマネはしなかったと聞いています。それでも住民の多くの支持を得てきたからこそ、米国に勝てたのでしょう。そうした「手段」の正当性こそ「目的」を正当たらしめるのであって、逆に独立という崇高なる「目的」が、全面戦争(=大量殺人)を合理化する事は、決して無いでしょう。
まぁ、権力者も、合理的な行動を取る為に、好戦的もしくは厭戦的な世論によらず、独自の責任が有るのは確かですが、人民の側としては、互いに大量に殺し合うという全面戦争に、最後までNOを突き付ける事でこそ、独立という「目的」にを正当化足らしめると、私は思います。
私はこの部分に対して何も異論を持っていません。<o:p></o:p>
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まぁ、少し感情的な物言いになってしまっていたら、申し訳ありません。
小田さんと、私の、御互いの違いというものは、それこそ「平和」だから自由に意見交換できる事であって、アイデンティティーの擁護と(他者を殺さない)自由の葛藤という問題も、何処までが緊急避難として許容されるかという【一線】の引き方だけである気もします。
後から見て、少しでも建設的な議論になる事を…<o:p></o:p>
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私は最後まで、伊賀さんと私といったい何が違うのかよく理解できませんでした。<o:p></o:p>
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